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夜型の生活になるには、三日ほどあればじゅうぶんだった。 すこし夜更かしをすれば簡単に昼夜が逆転する。冬休みのあいだだけ対馬の生活リズムに合わせてみようと思ったが、これは大学がはじまったとき元どおりに起き上がれるか不安だ。 年末年始実家に帰らなかったくせをして、対馬に合わせてまでここにいるのはどうかしている。家族は自分に構いすぎるからいやだ、なんて言い訳が意味を持たなくなってしまう。 ルームシェアのつもりで転がりこんだここでずっと、約束どおりにお酒の勉強をしていた。対馬から週に一度お金を渡されるかわりに自分が買い出しをして、たまにリカーショップでカクテルの材料を買ってくれば、それを合図にしたように自然に教えてくれた。 自分の覚え方は分解式だ。たとえば、ピーチリキュールとオレンジジュースをあわせればファジーネーブル。しかし足し算で考えるより、先にリキュールの名前を覚えて、それを構成する材料をあとから覚えていくほうが早かった。ほかのひとがどうしているかは知らない。ただこのやり方は、サロン・ド・テ・プランタンで紅茶のフレーバーを覚えていったときとおなじで、すごくぴったりきた。 知識があれば、技術が後からついてくる。実践に移せば理解が深まることもある。 ただそれでも、包丁だけはまともに握ったことがなかった。ペティナイフでレモンスライスを細工する練習に飽きてしまって、失敗作を一枚つまんでかじった。 「そういえば対馬さんて、結局なんのお仕事をしてるんですか」 デイトレードでもしているのかと思っていたが、ふつうに考えて昼間は寝ている。貯金だけで空っぽのバーのテナント料を払いながら、飯を食えているとは到底思えない。最近はルームシェアの相手のめんどうまで見ているわけだ。 「なんだろうね。なにか格好のつく職業の名前でも考えてくれない?」 よくもまあ、我ながらこんな得体の知れない男と暮らす気になったものだ。舌の裏がわずかに疼いて、大量の唾液とともにレモンスライスを飲みくだした。 真夜中も二時を過ぎればさすがに眠くて、飲み屋ごっこのテーブルに肘をついたまま意識がとろける。こうなると対馬が部屋まで送ってくれる。おなじ家のなかなのに、おかしな話である。 「おやすみ」と笑う彼に「寄っていきませんか」はあまりにも変なので、素直に挨拶を返して扉を閉める。いっしょに暮らしておいて、お茶でも出しましょうなんて展開はありえない。 あなたは俺のことが好きなんですか。ここに来たばかりの日にそう訊いたら、彼はたしかに好きだと言ってくれた。あれを間違いだと疑うなら、もういちど訊けばいい。しかしそれが許されないのは、自分が彼になにも差し出してはいないからだ。 好きだと言うわけでもなければ、上手に甘えられるわけでもない。いつもくだらない質問ばかりを投げては、失敗作のレモンをかじる。 あの日以来キスもしていない。べつに、したいわけではないですが。 もしかして自分は、ほんとうに効率よく教育されるためだけにここへ置かれているのだろうか。もしそうだとしたら、無事教育が済んだあとはどうなってしまうのだろう。 あんなに縛られることがいやだと感じていたのに、突き放されることを想像したとたんに怖い。あたえられた部屋へ送られるたび、そう思うようになった。 毎日のようにリカーショップへ通っては、オレンジジュースや炭酸水をこまごまと買って帰った。なにかを教わっているうちは安心していられる。同時に、徐々に自分自身に知識と技術が積まれていくことに恐怖を感じる。だからときどき忘れたふりをする。 「きみさ、計算高いって言われるでしょ」 いつか彼に言われた台詞がよみがえる。計算高くいられるならどれだけいいだろうか。とにかく家がなくなると困るので必死なんです。 家がなくなると困るのです。 自分に武器がないわけではない。いつだって、酔ったことを理由にして好き勝手したらいいのだ。はじめてふたりで会った日も、そうしてわがままを言った。困らせててのひらで転がしてやりたかった。しかし現在これではまるで、彼にしがみついているのは自分のほうだ。 もうすぐ冬も終わる。床暖房つきの家は素直にありがたかった。まだここを出なくていい確信があったのは、自分自身が未熟であるがゆえだ。 教えてもらったことを忘れたふりをして、ときどきほんとうに忘れていたりする。慣れていないことをすれば、記憶がこんがらがって危うい。ほら、まだ教えがいがあるでしょ。わざわざ自分で言うこともあった。 まだカウンターに立てるレベルではないことに安心していた。ほんとうは早く働きたい気持ちもあったけれど、不安の方が先に立つに決まっていた。 今日も今日とて、肘をついたままでまぶたを上下させていたところを、肩を抱かれて部屋まで送ってもらう。しかしなんだか妙にさみしいと思ってしまって、扉の前で対馬のシャツの胸元をつい握ってしまった。 爪を磨く習慣がいまだにあった。以前は不摂生ばかりしていて、すぐ爪ががたついていた。恥ずかしくて必死で磨いていたけれど、いまではすっかりきれいに伸びるようになった爪。彼のコットンのシャツにくいこんでは離れて、なめらかに光る。 「対馬さん。お話があって」 「そう。僕もきみに話があるんだ」 「では、あなたからどうぞ」 譲ったのが失敗だった。じゃあ、明日店のカウンターに立ってみようか。そんな台詞で酔いがさめた。 あれよあれよとは、こういう展開をいう。 つぎの日、結局大学へ行く時間に起きられなかった自分は昼過ぎにベッドを出て、ぼんやりとコーヒーをいれた。めずらしく対馬が起きている。 「夕方になる前には出かけるからね」 つい、「あなたの夕方の定義って何時からですか」と訊いてみた。いつもならこのあとでレモンスライスをかじるところだ。「十七時くらいかな」と返ってきて、自分の認識とおおよそ合致していることにだけ安心した。 マンションの下に呼んでおいたタクシーにふたりで乗りこみ、対馬が行き先を告げる。この道順、この言い回しを覚えておこうと思った。きっとこれは、今後の自分にとって日常になるはずだ。 久しぶりにやってきた対馬のバー。以前の記憶が、とてつもなく昔に感じる。対馬が早口で告げる。 店の鍵、ひとつきみに渡しておくね。ここに挿して開けるんだけど、すこし堅いから気をつけて。掃除は昨日やっておいたし、冷蔵庫や製氷機の電源も入れてきた。今日の立ち上げは僕がやろう、とりあえず見ておいて。 「はあ」 なにがここにあって、あれはここにある。よく使うものだけとりあえず教えておくから。あと、これとこれね。確認しておいて。最後にこれを確認してくれればあとはいいかな。 「はあ」 ここまでで十五分ほど。理解できなかったわけではないから、とりあえず頷いた。 「じゃあ、これは店の制服。きみに合うサイズがなかなかなくて、仕立て直したよ。僕は外で待ってる。だれも来ないようにドアの前にいるから、着替え終わったら呼んでね」 なるほど、こういう場合にありがちな「トイレで着替えてね」ではないようだ。個人的にあまり好まないので助かった。黒いマット紙の紙袋を受け取って、対馬が出ていくのを待ってから着替えた。カマーベストにすこし手間取ったくらいで、あとはすんなり着れた。 「終わりましたよ」 ドアを内側からノックするが、返事はない。ふしぎに思って開けると、そこに彼はいなかった。しかしすぐにもどってくる気がしていたので、踵を返してあらためて店内を見回した。 制服姿で眺める店は、当たり前にまったく違っていた。『ロンドン・トワイライト』。それがこの店の名前らしい。いまは照明がまぶしく輝いているが、やや光を絞ればそれこそ日没前のさみしさと、夜の静謐さが共存する空間になるだろう。 やや浮かれた足取りでカウンターの内側へともどって、対馬が教えてくれたあれこれをなぞるようにしながら、ものの位置を確認する。 ぴかぴかに磨き抜かれたグラスのふちに指を置いてみると、そのわずかな音でさえもが聞こえるようだった。そうだ、この空間に音が鳴るとすれば、これくらいでいい。あとは氷をすくう音がして、カクテルをステアするときの音がして、そこへだれかのため息が重なるくらいでいい。 うれしさと不安。 ここがきみの店になると、はっきりそう言ってあたえられた。果たして自分は、彼の期待に添うことができるのだろうか。 「まだ教えてもらいたいことの半分も教わってない気がするけど」 それでもがんばってみようと思う。この気持ちを早く彼に伝えたかった。 玄関の扉が開いた。つい前のめりになって、おかえりなさいと言おうとした。しかしすっと胸の奥が冷たくなったのは、入ってきた男がまったくの予想外だったせいだ。 その眼鏡のフレームは忘れかけていた形。 「月ヶ瀬さん」 かつて自分がひっぱたいた男だ。
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