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epilogue
穂希と街を歩いていると、彼は吸い寄せられるように思いもよらない店に入っていくことがある。その様子を表現するにあたってこの言葉を選ぶのはおかしいと思うが、しかし「音もなく」がぴったりくる。
もともと頼りない歩き方をするような子だから、ふわりと道をはずれた瞬間に気づけない。しかしそれも、気分の悪いものではなかった。今日はちいさなアクアリウムショップだった。店先にはどういう意図で展示されているのか、大小さまざまな琉金が狭い水槽のなかに数匹おしこまれていて、きっとそれが目にとまったに違いない。
薄暗い店内に、穂希は物怖じせずどんどん入っていく。あとを追いかける自分は、巨大なアロワナと目が合ってしまって一瞬立ち止まった。こんな場所にいても、穂希の背中は白く美しくかがやいている。
年配の男性店主がひとりで経営しているような店で、魚の種類はさほど多くない。自分たちが入ってきたことに気づいた店主はパフォーマンスのつもりか、だまって水槽に餌を撒きはじめた。
「ここにこんなお店があるなんて知らなかった。対馬さん、知ってましたか」
「僕も初めて知ったよ。ふだんはこのあたりを通ることもないしね」
穂希は「そっか」とさほど興味がなさそうな返事をして、水槽の前を移動しながら視線をめぐらせる。瞳がディスプレイの光をいくつもつかまえて宇宙のように回る。やがてショーベタが一匹ずつ入れられたちいさな水槽が並んでいるところで足を止め、動かなくなった。
水槽の前でわずかに指を動かすと、餌を期待した個体たちが水面で揺れる。管理されている彼らの色とりどりの尾びれは商品として申し分なく、ほつれもせずにひらひらとなびいた。
「きれい」
穂希の視線は、プラチナホワイトのベタの前でさらに止まった。ショーベタのなかでもハーフムーンという種類で、とくにオスは広げた尾びれが半月のように見える。
「熱帯魚ってこんなのもいるんだ。ちいさくて大群で泳ぐような魚ばかりだと思ってた」
これはしばらく動かないなと思って、自分は自分でほかの魚を冷やかして回る。さきほどはややびっくりしてしまったが、古代魚の類はきらいではない。あの静かな不気味さが意外と憎めないものだ。
ひとしきり店内を一周してもどってくると、穂希はまだベタの前にいた。なにげなく「飼いたいの」と問うと、彼はこれまでに見たことのないような顔で振り返った。
「飼えるんですか」
「大丈夫だよ。ただ、先に水槽を立ち上げておかないとね。このまま連れて帰っても、この子にしんどい思いをさせてしまうだろうから」
プラチナホワイトのベタは高級だが、ほかの大型の魚にくらべれば安価だ。手提げ袋で連れて帰ることもできる。そういえば彼に引っ越し祝いくらいあげるべきだったなと思っていた自分は、つい「買ってあげる」と言ってしまった。
店主に話をつけて水槽に売約済の札がかかると、穂希はとても満足そうだった。
「ねえ、いつ? いつごろ迎えにくればいいんでしょう」
「すくなくとも三日くらいは待とうか。水槽のなかにお迎えできる環境をつくらないとね」
そうと決まればすぐに帰らなくちゃ、と穂希は急に急ぎ足になって、買い物のつづきもそこそこに自宅へ帰ることになった。
ウォークインクローゼットの隅から、段ボール箱に入っていた三十センチ四方の水槽を引っ張り出してくる。ずいぶんつかっていなかったから、これを洗うところからはじめなければいけない。
そうしてちいさな水槽は、リビングのローテーブルの真ん中へ置かれることになった。
穂希は膝をついて、まだ空のままの、中古の水槽をながめていた。
「対馬さんは昔、ここにほかの魚を飼っていたんですか」
「そうだね。長く飼っていたし、おそらく寿命で死んでしまったけれど」
彼はまた「そっか」とさほど興味のなさそうな返事をした。
どういうつもりでそんな質問をされたのかはわからない。しかし彼には彼なりの意図があるような気がして、初めてばつが悪いような気持ちになった。
穂希がうちに引っ越してきた日、彼のことを「ショーウィンドウで飾られていた、ひときわきれいな熱帯魚」と呼んだことがある。
約束どおり三日後、ふたたび例のアクアリウムショップをおとずれた。穂希は酸素でぱんぱんにふくらんだビニール袋を紙袋に入れ、大事そうに連れ帰った。電車の座席で紙袋をかかえる彼は無垢な子どものようで、母のようだ。ずっと緊張していたようだが、家の玄関で靴を脱いだときようやくほっとした顔になって、それからゆっくりと紙袋を床に置いた。
水合わせなどの作業はこちらのほうが慣れているから、代わりにやってあげることになった。大事なのは魚の負担にならないよう、すこしずつあたらしい環境に慣れさせてあげることだ。
この魚がいままで住んでいた水に、これから住むことになる水が、一滴ずつ混ざっていく。
「名前を考えてあるの。シガツって呼ぼうと思います」
「どうしてシガツ?」
「四月に見つけたから」
ではあの店に行くのがあと一週間遅かったら、この子はゴガツになっていたという訳か。ちょっとどうなのと言いたかったが、彼がこの名前を至極気に入っているようなのでだまっておいた。
穂希は、シガツの尾びれがたなびくのをずっとながめている。ローテーブルの前のソファに横になって、飽きずにずっとだ。ちょうど午後の日差しがやわらいでくるころで、レースのカーテンから透けて入ってくる光があたたかく、彼はまどろみはじめた。
彼はこのごろ、このソファを好んでよく眠っている。自分の部屋をあたえているのに、わざわざここを選んで眠っているようにも見えた。あれほど人と干渉しあいながら暮らしたくないと言っていたのに、同居人が遠慮なしに出入りするリビングを気に入るとは。
その細い体にブランケットを被せる。水合わせが終わったころにもどってくるね、と声をかけたが、とっくに眠っていた。
自室にもどったタイミングで、スマートフォンが鳴った。
『お世話になっております。サロン・ド・テ・プランタンの佐原と申します』
すぐにパソコンの前へ座った。不具合でもあっただろうかと、先日完成させたばかりの『サロン・ド・テ・プランタン』のウェブサイトを確認する。
「なにか、ございましたか? 更新がしづらいとか」
『いえ、お恥ずかしながら私自身、そのへんが疎くて……。全部店のスタッフに任せてるんです。すてきなデザインをありがとうございました。今日はそのお礼と、その』
彼が言葉をにごす。言いたいことはなんとなくわかっていた。
「草薙くんのことかな」
『ええ、そうです。このたびは私情で、やっかいなことをお引き受けいただいてありがとうございました』
「私はたいしたことはしていませんよ。でも、もうご遠慮いただきたいかな」
笑ってみせたが、本心だった。穂希を泣かせてしまったことは事実だし、もう彼に嘘はつきたくなかった。
穂希がサロン・ド・テ・プランタンを辞めたあと、うちにひきとられていることをこの男に告げたのは、ほかでもない穂希自身だった。その後の進路をかならず報告すると約束していたようで、かなり信頼していたと見える。だから自分も彼を信頼することにした。
今回彼に依頼されたのは、「ある男と穂希がふたりきりで話す場をつくってほしい」というものだった。
『ほんとうに、申し訳ありませんでした。しかしあのお客様が、毎週毎週、思い詰めた表情でご来店されるものでしたから』
「そんなこと言って、辛気臭い顔をひっさげて店に来られるのがうっとうしかったんじゃないですか」
冗談とともにお互い笑って、この話は終わりにした。
正直、自分にはうしろめたさもあった。サロン・ド・テ・プランタンの雰囲気を確認するためにお茶をごちそうになった日、たまたまそこにいた穂希を、うちの店に来ないかと勧誘してしまった。まだ彼があの店で元気に働いていたころだ。
『よかったら、また来てください。デザートプレートをごちそうしますので』
「ありがたいけど、遠慮しておきます。『彼』と鉢合わせしたとき、どんな顔をしていいのかわかりません」
穂希を泣かせてしまったあの日、すこしだけ男の顔を見てしまった。嫉妬しないといえば嘘になる。佐原はこれも冗談だと思ったのか笑って流してくれた。それでは、また。なごやかに電話は切れたが、そのあとしばらくは紅茶のならんだ棚の写真をただながめていた。
リビングの西日がきつくなりはじめていたのであわててカーテンを閉めると、その音で穂希が起きてしまった。
熱帯魚の水合わせはとっくに終わっていた。水槽のなかで悠々と泳ぐベタは、あたらしい環境に適応しはじめたようだ。
「夕飯をつくろうか。穂希、なにか食べたいものはあるかな」
「つくってもらえたら、なんでも食べます」
「きみのきらいな野菜を入れるけど、それでもいいの」
彼はしばらくだまったあとで「食べます」とうなずいて、それからまだぼんやりさせたままの目をこすった。
「対馬さん。シガツにもうごはんをあげてもいいですか」
「あと三日はだめだよ。まだうちに来たばかりだから、すぐにあげるとびっくりして消化不良をおこすからね」
「そっか。熱帯魚ってじっくりつきあわないといけないんですね」
その言葉になにかちいさな決意があるような気がした。
水槽の底には青のガラス砂が敷いてある。その上を白い魚が泳いでいるのを遠目に見ると、ほんとうに四月の空が切り取られているようで、この変な名前も案外悪くないのではと思いはじめた。
「穂希。連休はどこかに出かけようか」
「連休はひとが多くていやだな。俺はここがいい」
「じゃあ僕もそうしよう。ずっときみといっしょにいてもいいかな」
「どうしてそんなことを訊くんですか? ここはあなたの家なのに」
「そうだね。そうだった」
冷蔵庫を開けて今夜のメニューを頭のなかで組み立てていた途中だったが、そっと閉めた。
「やっぱり今日は、きみの好きなものを食べよう。ピザでもとろうか」
どうしたんですか急に。穂希の視線が水槽からこちらに移って、やや訝しそうな顔をする。
じつは穂希にないしょにしていたが、シャンパンをずっと冷やしていた。どうしてだまって冷やしていたかも忘れてしまったが、開けるならきっと今夜以外にないと思った。
今日、初めてほんとうの共同生活がはじまったような気がすると正直に告げたら、「あなたがここに連れてきたんでしょう」なんて言われると思うから、これもないしょにしておこう。
しかし彼も、なんとなくそんなふうに考えているはずだ。
ふたつのグラスにシャンパンをそそいだら、もう一度彼に伝えるつもりでいる。
ここにきてくれてありがとう。
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