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03
どうせなにもわからないと思って、言いたい放題だった。
私はこんな感じで失恋しました、だれかに聞いてほしかった話はこれで以上です。なんだかな、失恋と言ってしまうのも腹ただしい。これでは、まるで自分が彼との恋愛にしがみついているようではないか。
対馬は怒濤の言葉の波を乗りこなすように、ただ頷いていた。いつのまにかカウンターにはアイスペールとボトルに入った安酒が置かれていて、手酌でだらだら飲むようになっていた。
「経緯はだいたいわかった。でもきみの相手、多分それ女の子じゃなくて男だよね」
唯一ついていた嘘だけはあっさり見抜かれる。だって女の子とつきあっていたエピソードにしては不自然すぎるからね。対馬は笑って、残った酒をグラスにそそいでくれた。
「嘘をつくのが下手だって言われるでしょ」
「どうでしょう」
図星であった。昔からかくしごとはできても、嘘がつけない。正直に生きなきゃ、なんて思ったつもりもないけれど。
安い酒は安い酒なりに、それなりのはたらきをする。たちの悪さが彼らの売りで、実際にいま、それに翻弄されていた。ぼんやりするし、その事実に安心する。
「しかしきみのような子を放っておくなんて、ひどい男もいたもんだね」
「それは女の子を口説くときの常套句ですね。仮にも成人した男をつかまえて言う台詞じゃない」
「それは失礼した」
「ほんとうに失礼ですね」
ああ、なんかやっと言えたな。ずっとこれを言ってやりたくて待ちかまえていた気がする。初めてあなたに会った瞬間から、すごく失礼な男だと思っていました。そこまではさすがに口にできなかったが、もうすこし深酒していたら、うっかり飛び出していたかもしれない。
「ほんとうに、ほんとにほんとに失礼なひと。俺を口説く気もないくせに」
それでも成人男性らしからぬ癇癪をおこしてしまった。氷をひとつぶ口にふくんで、奥歯で噛みくだく。鈍い音がすこしだけ感情を鎮めてくれた。舌の上でかけらが焼きつくされるのを待って、グラスをカウンターの奥へ押しやった。対馬はテーブルの引きずり跡をダスターで丁寧に拭いてくれる。
「きみは、僕に口説かれるつもりなんてないと思ってたけど」
「そうですね。たしかにそうです。だってあなたは、こんな場面でも相手のこと口説きもしない。そんなひとに口説かれるなんてまっぴらごめんです」
「酔っている? 言ってることが支離滅裂だけど」
「酔ってます。酔っていることを理由に、俺は今日帰らない」
帰らないでどうするつもりなのかな。対馬はあくまで聞き役を貫きとおす気らしい。
日も暮れるころに呼び出しておいて、いまさら電車で帰らせるつもりなら、それはそれでいい。もう、彼とは会わない。この話も請けない。知らない。お店がつぶれてしまおうと、自分には関係ない。
「いいんですよ、あなただって、酔っていることを理由にして俺を好きにしたらいい」
「しないよ。僕は大人だからね。もっと自分を大切にしなさい」
「いまさら。自分を大切にしてたら、そもそもあなたなんかに連絡してない」
「ひどい言われようだね」
目の前の男もまた、奥歯で氷を噛みくだいた。さすがに怒ったか。ややむくんだまぶたを開いてその顔を見ると、あろうことか笑っていた。
駆け引きとも呼べない掛け合いはもう終わり。ぶつけたいだけ鬱憤はぶつけた。あとはただの興味だ。
このあと、彼が自分をどうあつかってくれるのかを、ただ見守る。映画館で短調にポップコーンをかじりながら、エンドロールを待つ感覚に似ている。わざわざ足を運んだわりにつまらない映画だった。
「きみさ、計算高いって言われるでしょ」
「どうでしょう」
そういうところだよ。間髪入れず、遠慮なしにふれてきたくちびるは冷たい。ねじこまれた舌まで冷えている。それでも、すぐ下には熱がくすぶっているのがわかった。安い酒の味はどこまでも安く、甘ったるい。上顎をしっとりと舐められる。しかし、あくまで深追いしてこない。
これがその彼の言う『大人』の態度であるならば、してやられた気がする。逆に自分の舌先が、物足りないと言わんばかりにとろりと流れ出る。
「そんな顔をしてはいけないよ。みずから食われたがる羊を見てるみたい。もしかして、それも計算のうちだったりするのかな」
「その台詞、どこをとっても意味がわからない」
計算だったらどんなにいいだろう。自分に対して色のついた好意を向けてくる相手を籠絡することくらい、たやすいと思っていたのに。
「きみの恋人だった男についてもっと教えて。どんな男だったの」
言い訳で満たされていた安酒のボトルは、すっかり空になって役に立たなくなった。氷をかじるのも、ただむなしい。ピッチャーに入った水を飲む。ひたすら、水を飲む。
「ひとの傷口をえぐって、どうするつもりなんですか」
「あわよくばその傷口に、塩でも塗ってやろうかと思って」
うわ、最悪。カウンターの下で男の脛を蹴ったスニーカーは、そういえばかつて恋人だった男に買いあたえられたものだった。
「そうですね、かわいそうなひとでした。俺のことを天使みたいだなんて言って、よろこんでいた」
「それでよかったんじゃない? 最後まで、きみが彼のなかで天使だったなら」
意味がわからないと再度うったえる。目が乾いているのか、まばたきをするたびにまぶたの下でちいさな音がした。きっと真っ赤になっているだろう両眼を見られたくなくて、ゆっくり睫毛を伏せる。このまま眠ってしまいそうだ。
「僕には、きみが天使の顔をした悪魔にしか見えない」
かつて好きだった男が買いあたえてくれた靴の先が、ふたたび対馬の脛を蹴る。痛い痛い、なんて笑っていられるうちは、なんどでも蹴ってやりたかった。
「どこまでも失礼なひと。下についてるものを切り落として生ゴミで出してやりたい」
「かわいい口で、そういうことを言うんじゃない」
「そのかわいい口を、先に蹂躙したのはあなたでしょう」
そうだね。この世界は、言葉よりも行動でしめした相手が裁かれてしまうからね。僕が悪かった。
「だから」
もういちどしようか。罪を重ねたところで、罪は罪だから、きっと重さは変わらないよ。
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