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04
いま、何時だろうか。
ポケットに入ったスマートフォンを取り出せば解決する疑問を、「面倒」のひとことでなかったことにする。しかしきっと、終電なんてとっくにないはずだ。もうずいぶん長くここにいる。
カウンターにだらしなくもたれたままでいると、女性客に貸し出しているというブランケットを肩にかけられた。酔いはさめているはずだが、ひたすらに眠い。眠いということは、副交感神経が優位に立っているということで、つまり自分は不本意にもここで気を抜いているのである。
肘をついたままで顔をあげると、となりにへんな形の眼鏡がいた。もうどうにでもなればいい。
「請けます、あなたのお話。ここで働かせてくれますか」
「ありがとう。そう言ってくれると信じてたよ」
そうですか。このひとやっぱり図々しいな。二回も三回もキスしておいて、ここで突然経営者の顔にもどるのもなんだか気に食わない。どうせなら、気に食わないままでいようと思う。それならばいつだって、心置きなく逃げられる。
「俺は今夜、帰らないって言いました」
「そうだね。僕としてもきみをここで帰してしまえば、まるで了承してもらうまで拘束していたみたいだ」
「それならそれでよかったかな。無理やり了承させられたみたいで。タクシー代だけもらえますか」
帰らないんじゃなかったのかな。苦笑いする対馬は、時間稼ぎをしてこれからの予定をあくまでこちらに判断させたがっているようだ。キスしてきたときは自分が罪をかぶると言っていたくせに、こういうやり口は卑怯だと思う。さて、どこまで自暴自棄になれるだろうか。
「無理やりついでに、そのへんのホテルに連れこんでもらえませんか」
「待ってくれ。きみに働いてもらう話は無理やりじゃないだろう」
「わかってますよ。言ってみただけです」
二度目の苦笑いを、倦怠感によるため息でやりすごした。対馬はカウンターの周辺をかたづけると、壁にかけてあったコートをふたりぶん、ハンガーからはずした。
バーに来るまでは彼の背中を追うようにして歩いていたが、こんどは肩をならべている。冷え切った身体を、切れるような風がさらにあおる。この時間に出歩いているひとびとはほとんどが夜の匂いをさせていて、毒々しくも艶やかに輝いて見える。
「穂希、いつもそんなふうに危なっかしい歩きかたをしてるの」
「よく言われますけど、転んだことはないですよ」
言ったはしから歩道のささいな段差に蹴躓いた。はい、嘘だね。きっぱりと言い放った対馬が、肩を抱いてくる。その動作にまったく下心が感じられなくて、むしろおどろいた。果たしてこのひとは、ホテルの部屋のドアを閉めたらどんなふうに豹変するのだろうか。
けばけばしい建物である。自分から連れこんでくれなんて言っておきながら、来るのは初めてだ。システムがわからず突っ立っているだけの自分を置いて、対馬はさっさと部屋を選んでしまった。エレベーターのボタンを押す前にだれかが降りてくる気配があったので、一歩さがって待つ。おおきな荷物をかかえた若い女性があわただしく出ていくまで、対馬は背中に自分を隠すように立っていた。
三〇二。いちばん安い部屋でごめんね。彼につづいてエレベーターを降りると、薄暗い廊下でランプが点滅している。静かな非常事態のようだ。たしかに異常でどうかしているな、と思いながら、三〇二の扉を開けたとたんにランプは消えた。
オートロックがかかればもう逃げられない。ここでなにをされようが、もう文句は言えない。ある程度覚悟はしていた。それなのにとんだ肩透かしだった。対馬は脇目もふらず部屋の中央にある巨大なベッドまで歩み寄ると、紙のように貼りついた布団をはがす。
「おやすみ。眠いんだろう」
ええ、まあ。あいまいに返事をしたが、そのとおりだった。いまにも倒れそうに眠い。吸いこまれるようにベッドへ向かうと、並んだ枕と枕のあいだに転がりこむ。親が子を寝かしつけるときのように、肩まで布団をかけられた。
「俺、シャワーは明日の朝浴びることにします。あなたは」
「僕もそうしようかな。いつもならこの時間に入浴してるけど、今日はなんだか嬉しくて疲れてしまった」
嬉しいと疲れるんです? 枕をたぐりよせながら訊いた。歳かなあ。眼鏡をはずすときの独特の音が聞こえる。
「そうしていると、ほんとうに天使みたいだね」
「こんな真っ赤な目をした天使がいるもんですか」
くどいなあ。眼鏡があってもなくてもなにが見えているんだろう。どいつもこいつも、ぼけるにはまだ早いでしょうよ。わずらわしそうにしているのがつたわったのか、スリッパの足音が遠ざかっていった。
「僕はソファで眠るよ」
ここまで来ておいて。そしてほんとうに、ふたりがけのソファの端にスツールを足してセッティングしたあと、そこに横になってしまった。
そうですか、おやすみなさい。どうでもよさそうに挨拶して、余った枕を抱きしめた。明日の講義は午前からあったはずだ。眠れるとしたら何時までだろうか。シャワーを浴びて着替えに帰って、いつもの時間のバスに乗りたい。それにしてもへんな色の照明。眩しくて眠れやしない。もぞもぞ動くたび、シーツがこすれる音がやけに響く。
「照明は枕元のコンソールで落とせるからね」
見透かされたようになにか言われた。はいはい、お詳しいですね。手を伸ばせばたしかにいろいろボタンがある。あちこちいじり回して、正しくないかたちで一日が終わった。
目が覚めると十時を過ぎていた。終わったな。アラームもかけずに寝てしまったのだから当然かもしれない。いまから急いで支度をしたところで、講義には間に合わないだろう。
遅刻が確定したならば、もう急ぐ必要もないとバスルームへ向かった。対馬はまだソファで眠っている。かわいそうにジャケットを布団代わりにしていて、きっと寒かっただろう。って、自分からここで眠ると言ったのだからかわいそうでもなんでもないか。
妙にかびくさいバスルームには、悪趣味な赤い色のバスタブがある。ここだけで自分の部屋くらいの広さがあるせいか異様に冷えていて、焦るようにシャワーのコックを捻った。ようやく温水が出はじめたころ、すこしだけほっとした。
備えつけのシャンプーはきつい匂いがしたが、いつもつかっているものとはまったく違うから、今後この匂いで今日のことを思い出すこともないだろう。しかしすべてを洗い流したあと、素面の自分はどう振る舞えばいいのかわからない。昨日のことはよく覚えている。
我ながらたいへんあつかいにくい髪の毛をしていて、いいかげんに乾かせばすぐにくるくるうねって手がつけられなくなる。洗面台の前に立ち、安物のドライヤーで格闘していると、対馬が起きてきた。
「おはよう。なんて格好してるの」
髪の毛を最優先させるあまり、裸に首からフェイスタオルをひっかけたままだった。わあ、ごめんなさい、とか言ってすこしでも恥じらってみせればよかったのかもしれないが、いまはそれどころではない。裸を見られるより、膨らんだ頭を見られるほうがよほど恥ずかしい。
おはようございます、お気になさらず。ふたたびドライヤーのスイッチを入れれば、たよりない風の音が耳を覆った。対馬がうしろでなにか言ったかもしれないが、おそらく「自分もシャワーを浴びるね」といったところか。鏡越しに、自分の背後で服を脱ぎはじめる彼のすがたが見えた。
自分が入っているときは気にならなかったが、なんとこのバスルームの扉はガラス張りで、中が丸見えだ。それらすべてを無視するように髪を乾かし終え、歯を磨いて、さっさとベッドルームへもどった。テレビがつまらないのでぼんやりとスマートフォンをいじっていると、対馬がやってくる。いいな、このひとは髪の毛まっすぐでさ。
「いま、何時くらい」
「十二時ちょっと前です」
どうやら十一時を過ぎると延長料金が発生するらしい。彼もまた、延長が発生したならばもう急ぐ必要もないというスタンスのようだ。ふたりでのろのろと昨日の服に袖を通し、精算してホテルを出た。
よく晴れた街のなかで、多くの人間はとっくに活動をはじめていた。スタートダッシュに出遅れた自分は、正しくないかたちではじまった一日の過ごし方を考える。そういえば時間をもてあますなんていつぶりだろうか。
「あの、駅ってどっちでしたっけ。どの道を通ってきたのかよく覚えてなくて」
「そっか。こっちだよ、ついておいで」
ついておいでと言いながらさりげなくとなりにいるのは、きっと自分が転ばないか気にかけてくれているのだろう。そんな彼をうっとうしいと思うことは、もうできなかった。
「穂希、うちで暮らさない?」
あまりに唐突だったから、「え、暮らしませんけど」と返してしまった。
「なんですかそれ。恋人気取りかなにかですか」
「あれ、気に食わなかった?」
「そんなところです」
対馬は不意に大声で笑いはじめた。通行人が振り返る。こちらはというと、突然にそんなギャップを見せつけられて唖然とするしかなかった。
「ただのルームシェアだと思ってくれていいよ。僕はお金は余らせてないけど、部屋は余らせていてね」
「だから家賃を半分払ってほしいと」
「違う、違う。最後まで聞いてよ」
そうだね、じゃあ、きみが了承してくれるまで拘束してもいい? そこのコーヒーショップにでも入ろうか。
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