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「ふたりとも、朝食もまだだしね」 そう言われてしまえば了承するしかない。どちらかといえば自分は、今日まできっちり太陽とともにある生活リズムで生きてきた。正午を過ぎて腹が減らないといえば嘘になる。 昨夜ホテルに入ったときよりも、よっぽど連れ込まれるかたちで入ったコーヒーショップ。ふだんこの手の店にはあまり来ない。コーヒー一杯で五百円近く取られるなんてどうかしている。 「なんでも注文していいよ。きみに了承してもらえるまで帰さないつもりでいるから」 こちらとてそのつもりだと、一つ八百円するサンドイッチを二つもトレイにのせた。ほんとうは使い回しの油で揚げたような、塩味のきついポテトが食べたかった。 こんどは肩を抱かれる距離ではなく、向かい合わせの席で食事をする。隣り合わせともまた違う。恋人ではない、男と男の正しい距離感。あたたかいコーヒーは素直にありがたかった。でもやっぱり、こんなときでも氷まみれのコーラが恋しかったりする。 対馬はカフェラテにほんのわずかにシュガーを溶かして、表面のこまかな泡を壊さないようにしながらかきまぜた。 「さて、うちの話なんだけど」 場所がこのへんで、最寄駅がここ。徒歩十分かからない。間取りがこう。ほんの数年前に買った新築で、システムキッチンだし、バスルームは追い焚き機能ついてるし、なんなら床暖もついてる。 部屋がひとつ余っていると言ったね。広くはないけれど、狭くもないから、不便はしないと思うんだけど。 「どうかな」 彼はそこまでを一気にしゃべって、ようやくカフェラテに口をつけた。どうと言われても。自分が了承するまで拘束すると言われたうえであたえられた、サンドイッチにかじりつく。 「そこだと、大学がちょっと遠くなっちゃって面倒かも。それを上回るメリットとしてなにがあるのか教えてもらえませんか」 「もちろん。まず、家賃と生活費は払わなくていい」 はあ、それはたしかにすごい。 「それに、きみにあの店で働いてもらうにあたって、こっちにいてもらったほうが仕事を覚えやすいんじゃないかな。店のカウンター内までとはいかないけど、道具やリキュールの類もある程度あるしね」 なるほど、まあ、なるほどね。 あとは? とつぎを急かすと、「以上かな」と苦笑いされた。そういうとき、最低三つは挙げなければ相手を納得させられないと思うんですけど。 しかしやはり、自分はだれかと共同生活を送るなんて到底向いていない。この程度なら、やっぱり自分で家賃も生活費も払ってひとりで暮らしたほうがいい。仕事だって通いながら覚えられるよう努力するし。 でももう、サンドイッチをひとつ食べ終えてしまった。 「俺、むずかしいと思いますよ。自分の家族とすらもう暮らせないなってくらい、好き勝手やってるのに」 相手の生活リズムに縛られるなんて、なんだかいやだな。 「だから言ってるじゃない、ルームシェアだと思ってくれていいって」 「そうですか? 参考までに、あなたの起床時間と就寝時間を教えてもらっていいですか」 彼は自分のことを夜型人間だと言っていた。とはいえ、すこしお酒を飲んで夜更かしする程度だろうと思っていた。なのに彼が答えた生活リズムは、まるで闇に隠れておだやかに生きる梟のようだった。 早い話が、自分とは真逆だ。 「いま、いつもなら寝てる時間では? しんどくないですか」 「平気だよ。人間の世界は太陽の出ているうちにしかできないことが多いから、合わせなければならない日もある」 「そうですか」 「たまには日のあたるときに外に出てみるものだよ。あの日、きみに逢えたしね」 そうですか、とくりかえす声がかすれた。 サンドイッチをふたつも食べ切れるはずがない。とはいえ、フィルムをめくってしまった。中身を半分にして、対馬に渡した。 「俺、ひとりで引越しってしたことない。あのときは大学に受かって、ぼんやりしているうちに家族が家を決めちゃって、引越しの手配まで全部やってくれたから」 対馬が受け取ったサンドイッチをかじりながら、「きみらしいね」と笑った。なにが、「きみらしい」だ。そういう台詞は、相手のことをちゃんと知った人間が言うものだ。でも、あなたに俺のなにがわかるの、なんて言ってしまうには、長くいっしょにいすぎた気がする。 うわべだけをわかりあうなら、お酒を飲んで、何回かキスをして、一晩寝泊りすればじゅうぶんだ。 「じゃあ、こんどは僕がきみの引越しの面倒を見よう。ぼんやりしていてくれればいいよ」 「わかりました。そうします」 こういうところが、きっと彼の、彼らしいところなのだと思う。しかし言い切ってしまう自信がなかった。自分は対馬暁月という男のことを、いったいどれだけ知っているのだろう。お酒を飲んで、キスをして、おなじ部屋で眠ったはずなのに。 ほんとうにぼんやりしているだけで、あっというまに引っ越しが決まった。 荷造りも業者に依頼したから、ほんとうにただぼんやりしていただけだ。徐々に運び出されていく家具を眺めながら、とくに感慨深くなることもない。代わりに、これから暮らしていく部屋に初めて上がってもなにも思わなかった。 荷ほどきくらいは自分の都合のいいようにやりたかったので、業者には搬入だけをお願いした。とはいえ、埃っぽい箱に囲まれて暮らすのはいやだから、早くかたづけたい。しかし自分の周囲の空気があれこれ動く状況というのはたいへん疲れた。 ぺたんと床に座ったまま動けなくなっていると、対馬がマグカップにコーヒーをいれて持ってきた。 「やっぱり、すごいね。自分の家に天使がいるというのは」 「昼間から強めのお酒でも飲まれましたか」 「いや。むしろこれから、コーヒーじゃなくてシャンパン開けたいくらい」 「なんだか楽しそう。お祝いごとみたい」 言いながら、コーヒーを受け取った。デザイン性はないけれど、気取らない白のマグカップ。すでにシュガーが溶かしてあるようだ。彼にコーヒーの好みをつたえた覚えはないけれど、以前コーヒーショップで自分の飲み方を見られていたとすれば、不自然ではなかった。 「お祝いごとだと思うけどな。引越しって」 「すべての引っ越しがお祝いにつながるとは思えないですけど」 「そう? すくなくとも僕はうれしいよ」 彼のマグカップの中身はきっと、ほんのりと甘いカフェオレに違いない。へんなかたちをしたフレームの眼鏡が、わずかにくもる。彼が膝をついて目線の高さがそろったのを見はからって、口を開いた。 「シャンパン、あるんですか」 「ごめん、買いに行かなきゃないんだけどね」 「買いに、行きますか」 「いっしょに?」 マグカップで顔を隠して頷いた。 もうすこし落ち着いたら、ふたりで出かけようという話になった。これでは、まるで。考えないようにしていたのについ、なにを着て行こうかなという気分になってしまう。衣類はまだ箱の中だ。 唯一ハンガーにかけっぱなしだった白いコートだけは、そのままクローゼットにしまわれていた。 「対馬さん」 「はい、なにかな」 「この地域って、衣類は何曜日に捨てればいいんですか」 とにかく捨てたい。捨てたくて捨てたくて、これだけはどうしても自分の手で処理しなければならない。僕がやっておこうかという申し出を断って、つぎのごみの日だけを聞き出した。 どうしてもあのコートを捨てたかった。買えばきっと高いのだけど、持っているのはいやだった。そうだな、ついでにあのスニーカーも捨てよう。 ほかにも捨てなければいけないものが、たくさんある気がする。どれもこれもきっと、悲しい匂いをまとっているに違いなかった。
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