06

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シャンパンってはじめて飲みました。そう言うと、対馬は「おや意外」という顔をした。 さしずめ、前の恋人にさんざん飲ませてもらっていたのでは、なんて思っていたのだろう。もう他人になったひとのことを思い出すのはいやだったけれど、あのひととは最初から最後までアルコールのグラスをかわすことはなかった。 酔った相手をどうこうしたくないから、というのが理由らしい。逆に考えればどうこうするのが前提で動いているような気がするし、そのうえ妙な自信が見え隠れしている。他人になったとたんにどうしようもなく腹がたってきたのは間違いない。 「そっか。はじめてのシャンパンの味はどう? 穂希」 「味がどうって感じより、ただお腹いっぱい」 そう言っているのに、対馬は空になったグラスに残りのすべてをそそいでくれた。突き返すことができずに飲んだ。 「きみはコンビニで缶チューハイを買って飲むと言ってたね。どんなときに飲んでたの」 「どんなときだったかなあ。思い出せるうちはきっと幸せだったのかも」 「どういう意味?」 「俺はきっと、いろいろなことを思い出さないようにしてるんです」 シャンパンという酒は、そのかろやかな見た目に反してずしりと重い。コンビニのチューハイなんてすかすかだ。あれは駄菓子を炭酸水で薄めたような味をしている。自分はどんな気持ちで飲んでいたのだろう。 好きなひとができてから、その相手に裏切られるまでのあいだは、アルコールは必要なかった。その代わりにコーラを飲んでいた。おもちゃみたいな味なのは変わらないけれど、ソフトドリンクは飲んだあとで平衡感覚が不自然になったりしない。恋というただでさえ狂った平衡感覚のなかで暮らしているのに、それではまるで歩けなくなってしまう。 恋なんてするもんじゃないし、お酒だって、こんなの飲むようなもんじゃない。それでもすべて世の中に蔓延しているということは、だれもが自分の足元を狂わせながら生きていたいのだ。 それでも、現実から目を背けたい気持ちがわからないわけではない。恋人の家に行ったら、知らないだれかと玄関で抱き合っている現実なんて、受け入れられるほうがどうかしている。そこから再スタートをきれる人間なんて、ごく一部だ。 そのごく一部からはずれた自分は、自暴自棄になるしかない。 「対馬さん。キスしたい」 「きみにしては拙い誘い方じゃない」 「したいの」 「このあいだみたいに、もっと回りくどい感じでくるのかと思ってた」 「回りくどい感じがよかったんですか」 そうじゃないよ、と対馬は首を横に振る。彼は自分のグラスに残ったシャンパンを飲み切って、鷹揚に頬杖をついた。なにかおもしろいものでも眺めているような顔がすこし気に食わない。 からかわれている気がしてならない。どうせ彼にくらべれば、自分は子どもだ。ただこうして、おなじボトルから酒を飲んでいるときくらいは対等でいたかったのに。また、癇癪を起こしてしまいそうだ。 「穂希。きみ、僕に前の恋人の代わりをさせようとしてないかな」 「してません。どちらかというと、俺の前の恋人と張り合っているのはあなたのほうだと思ってましたけど」 「ああ、うん。そうだね。それは間違ってないかな」 彼の指が、テーブルの上でわずかに動く。このひとの家、飲み屋ごっこみたいにカウンターテーブルなんだよね。 だからちょっと顔を近づければ、ねじ巻き式のオルゴールみたいにキスができるわけです。 たぐられるように指先でおとがいを撫でられて、つぎの瞬間にはもうくちびるを吸われた。あのひとのことはもう好きなんかじゃないし、このひとのことを好きなわけでもない。ただ子どもって、さみしいと口にものを入れたくなるらしい。たぶん、それだけの話。 「あなたは、俺のことが好きなんですか」 「そうだね。だからきみがうちに来てくれてうれしいよ」 「その感覚が、俺にはちょっとよくわからない」 「たとえるなら、ショーウィンドウで飾られていた、ひときわきれいな熱帯魚がうちの水槽で泳いでる感じかな」 水槽。水槽かあ。それが広いにしても狭いにしても、すごく窮屈な気がする。 「熱帯魚って管理がむずかしいんですよ」 「知ってるよ」のひとことでなにが言いたいのかわかってしまって、それがすこし癇に障った。 「お酒の勉強って、なにからはじめたらいいんですか」 「そういえば、僕もなにから教えたらいいのかわからないかも」 熱帯魚、飼育する気ないじゃないですか。 「俺、ショーウィンドウに帰ろうかな」 「待って、待って。こんなのはどう?」 カウンターテーブルから手のとどく位置にちいさな本棚があることには気づいていた。対馬はそこからもっとも初心者向けだと思われる一冊を抜いて、ぱらぱらとめくる。ああ、よさそう。ひとりでつぶやいたあとで、その本を手渡してきた。 自分もだまってページをめくった。右利きだから、右閉じの本は最後からめくる癖があるけれど、冒頭には知識を構築するにあたって必要な基礎がちゃんと書かれている。 「なるほど、これでじゅうぶんです。こういうマニュアルは大好き」 「よかった。きみの口から、大好きなんて言葉が聞けるとは思わなかった」 「べつにあなたに言ったわけじゃないですよ」 「わかってるよ。ただこれまで、きみから「いやだ」とは逆の意見を聞いたことがなかったから」 つまりこれは、彼が提供するものに対して、はじめて示した好意であるらしい。我ながら情けないと思ったのは、これでは自分がほんとうに「いや」しかつたえることができない子どものようだったからだ。 「でも、これはほんとうに好き。カクテルってすごく奥が深いんだ。中身はおなじなのに、入れるグラスが違うだけで名前が変わっちゃうのとかおもしろいな。高校の化学の授業思い出しました」 「似てるかなあ、それって」 「わかりませんけど、俺は化学の授業好きでしたよ。逆に、現代文きらいだったな。文章から登場人物や作者のことを察してさらに言語化するなんて馬鹿げてる」 「古文は?」 「あれはある程度法則性があるし、暗号を解いてるみたいで好きでした」 しばらくその本を借りることになった。今日から自分のものになった部屋で、寝転がってページをめくった。 たくさんの情報が飛びこんでくる。しかしきっと、ここに書いてあることがすべてではない。実践にうつらないと理解できないことだってきっとある。それはなんだか、久しぶりに楽しいことのような気がした。 まだ山積みのままになっている引越しのダンボールの横に、自分の体格には不釣り合いのコートが掛かっていた。夕方、対馬から借りた。自分のコートはごみ袋の中にある。あれもこれもいっしょに入っているから、今後もきっといろいろなものを借りることになるだろう。 水槽の中の熱帯魚か。天使よりはましかな。
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