07

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ハーブティーは、自分にとっていまいち馴染めない味だった。 「なんだか、草の汁を飲んでるみたい」 けして飲めないというわけではない。酸味は強すぎず、いやな渋みもなく、苦味は適度で、わずかに甘味もある。香りはもちろん完璧だ。それなのにこの物足りなさはなんだろう。普段コーラばかり飲んでいるせいでもないようだ。 これまでお茶といえば、サロン・ド・テ・プランタンで出てくるようなものしか知らない。カメリア・シネンシス由来のお茶ならば、こんな自分でも満足する。 「ごめんね。僕のいれたハーブティー、気に入らなかったかな」 眼鏡の男が笑っている。自分たちはソファにならんで座っていた。 「そういうわけではないです。俺が勝手に、もっと飲みごたえがあるものだと想像していただけです」 「がっかりする」というのは、そう言った側の落ち度になると思っている。勝手に過度な期待を抱いて、勝手に裏切られたと判断する。それなのに、一方的に相手の落ち度にしようとする、あまりにも自己中心的な発言だ。 かろうじてそれを口にせず、あくまでやんわりと、期待はずれであったことをつたえる。 彼とは癖毛がおそろいでうれしかった。食べ物の趣味は合わなくても、このまま自分たちは幸せに過ごすのだと思っていた。 「それじゃあ、お客様がくるから穂希は帰ってくれるかな」 急に胸の奥が重くなったと思ったら、眼鏡の男の向こう側には男の子がひとり座っていた。目がおおきくてかわいい。髪の毛は艶があってさらさらしている。彼は自分のカップにハーブティーをそそいでもらい、おいしそうに飲んでいた。 「そんなわけだから、きみは帰ってね。僕たちはもう会うこともない」 ありえない。男をひっぱたかなきゃと思った。やろうと思えば相手が狼狽するほど強く叩けるはずなのに、どんなに手を振り上げようとちからが入らない。もうきらい、ペパーミントなんてきらい、飲むはずがないでしょ、あなたのつくったものなんて。泣き叫ぼうにも声が出なかった。 声が出ないから、自分はもういないことにされている。ふたりが寄り添って眠りはじめたのを見て、部屋を出た。しかしもういちど帰れば、男は自分を思い出してくれるかもしれない。閉まったばかりのドアにカードキーを差し込む。しかしなんど試したところで、オートロックが開くことはなかった。 知らない匂いで目が覚めた。初めて寝泊まりする部屋の、明け方の匂いだ。 胸の上には、対馬から借りた本が開いたままで乗っかっていた。部屋の照明がつきっぱなしになっているせいで、意識が妙に冴え冴えしている。本を持ち上げるとペパーミントのリキュールがちいさく紹介されていて、いやな夢のつづきを見た気分になった。最悪。もういちど眠る気にもなれない。 まるで眠っていないようだけれど、きっと引越してすぐなんてこんなものだ。今日は久しぶりに大学へ行こう。きっと午後には眠くなるに違いないが、このまま講義を受けずに単位を落とすよりはいい。 昨日のうちにコーヒーメーカーの使い方だけは教えてもらっていた。あたたかいコーヒーを飲んで、それから身支度をした。新しい通学路に慣れていないことも考慮してすこし早く家を出ようとすると、対馬はまだ眠っているようだった。それとも、さきほど眠りについたのだろうか。音のしない部屋に行ってきますを言うのはおかしい気がして、そのまま玄関の鍵を閉めた。 いつもと違う出発点から、いつもとおなじ大学へ到着するのはふしぎな感覚だ。無事にたどりつけてよかった。 「あれ、穂希ちゃんじゃん」 数こそすくないが、大学に親しい友人がいないわけではない。そのうちのひとりに廊下で偶然出会って、声をかけられる。彼女はいつも着ている服のセンスが洗練されていて、仲間内での評判もよかった。 「最近来てなかったけど、風邪でもひいてたの」 「そんなところ。はやってるから気をつけて」 「私は元気。それにしても、見慣れないコート着てるね。いつもの高そうな白のコートはどうしたの? それ、サイズがおおきくて変だよ」 コートにケチャップがついてクリーニングに出して、父親から代わりを借りたと適当な嘘をついた。 「ハンバーガーばっかり食べてちゃだめだよ。肌が荒れるし太るよ。でも穂希ちゃんて、ひとり暮らしじゃなかったっけ」 適当な嘘はつくものじゃない。思わず口ごもったが、彼女は「ま、いいか」と流してくれた。好きな言葉だ。そういう些末なことをさっさと流してくれる淡白さのおかげで、彼女とつきあっていけているのだろう。 彼女は自分と違っていそがしい。またね、と軽快なあいさつとともに去っていく。 サイズの合っていないコートはひどく重い。早々に脱いでしまいたい気持ちはあったけれど、いまはこれを着ることで安心していた。自分であたらしいコートを選びなおすことに自信がなかったから、しばらくこのままでいるつもりだ。彼女に今年の流行でも聞いておけばよかった。ま、いいか。 午後の講義はさすがに眠かった。それでも、日常がもどりつつあることを実感して心地よかった。そして昨日までとは違う家に帰る。日常と非日常がつぎはぎされて、これからの当たり前になっていくのだろう。 すると、あたらしい帰り道にはリカーショップがあることに気づいた。寄り道は好まなかったが、吸いこまれるようにして入った。 普段立ち寄るコンビニとはまったく違った品揃えだ。昨晩本で眺めていただけのリキュールがそこに実在して、すこし感動する。なにから手をつけていいかわからなかったから、オレンジジュースとコーラ、それからミックスナッツを買って帰った。 ミックスナッツは対馬への土産だ。コートの使用料。それも、今後しばらくお借りしますの意味をこめて大入り。駅の階段をかろやかに駆け上がってしまったとき、ようやく自分が浮かれていることに気づいた。まるで恋人と同棲でもしているようだ。 帰ってきた対馬のマンションの鍵はすんなり開いた。なぜか、鍵が合わなかったらどうしようと不安だった。 「おかえり」 慣れないあいさつ。ぎこちない「ただいま」と食事の香り。なにも言っていないのに、夕食がふたりぶん用意されている。部屋があたたかい。 「きみ、苦手な食べ物あったっけ」 ほんとうは野菜が苦手だ。しかし子どもあつかいされたくなくて、「ありません」と平然と答えてみせる。パスタのとなりにサラダがならんでいた。ドレッシングまみれにすれば、たぶん大丈夫だ。 「そう、よかった。すぐ食べられるから、手を洗っておいで」 言われたとおりに手を洗った。うがいもした。それから鏡の前で、寒さに負けてしまった鼻の赤みがひくのを待った。 自分の鼻を見つめながら、頭のなかでくりかえし練習する。 「今日はオレンジジュースとコーラを買ってきたから、簡単なカクテルのつくりかたから教えてもらえませんか」 言える。今日はきっと、素直にお願いできるはずだ。
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