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09
ここで騒いだら負けだ。
対馬の代わりに別れた男が入ってくるなんて、だれが想像できただろう。それでも自分自身に、「驚くそぶりを見せるな」というとっさの判断をくだした。これは意地でもプライドでもない。しかしそうでなければ、なんなのだろう。
「なにか、御用でしょうか。月ヶ瀬さん」
「なにか御用、とはご挨拶だ」
「ほかに適切な言葉が見つかりませんでしたので。そもそも、あなたにこの店の場所を教えましたっけ」
差し出す刺をものともしないで、彼はカウンターの真ん中の席をえらんで座った。すぐに帰る気はないようだ。この場所でまだお客と呼べる相手にウーロン茶すら出したことがないのに、「なにか飲みますか」なんて言葉が自然に出てきた。
頭のなかで、対馬がさっきまで教えてくれていたあれこれを結ぶ。カシスシロップがこちらの棚に、業務用のアイスティーベースがあちらの扉の裏に。炭酸水はここ。このひとがアルコールを口にするはずがないから、むずかしいことはしなくていいはずだ。この状況で、慣れている感じを演出するくらいできる。その判断ができたというだけで、こちらの勝ちだ。
あなたのなかの草薙穂希は、ただぼんやりしているだけの男ではない。
彼は案の定「ノンアルコールでおまかせ」ときたから、適当なドリンクをあたりさわりのない感じにつくってあげた。こんなものをありがたがるのは、砂漠でいまにも死にそうになっているひとくらいだと思いますけど。
そして嗤ってやるつもりでいた。みじめな男だと見下してやるつもりでいた。なのに彼が大事そうにストローへ口をつけた瞬間から、胸の奥から怒りとも侮蔑とも違う感情があふれだしてきた。
初めてサロン・ド・テ・プランタンの客席で彼を見たとき、ああ、迷いこんできたのだなと確信した。
たくさんの紅茶の名前を前にして、視線が泳いでいる。時折天井のシャンデリアを眺めては、ふたたびメニュー表を見つめる。しかし態度が堂々としていて、悪くない。近くのテーブルを気にかけるふりをして、そばを通りかかってみた。
「やあ、天使に逢ったのかと思った」
へんな男。でも彼もまたこちらにへんな印象を持ってしまったようだから、ちょっとこのまま観察してみようかな。
このひとはやはり紅茶の種類の多さにとまどっているようだ。なにを飲めばいいのかわからないと相談されるのは日常だ。しかし彼はこちらがなにを提案しようと、違う違うと首を横に振って悩んでいる。
さすがにすこしめんどうになってきた。あとから考えると、もしかしたら自分を長く引き留めようと思っていたのかもしれない。しかしあのときは、とにかく一度離脱したかった。
「では、ラプサンスーチョンはいかがでしょうか。こちらはもう、特別なお客様にしかおすすめしない紅茶なんです。独特の香りで、熱狂的に愛好する方も多くいらっしゃいます。お客様にはこちらがぴったりだと思いますよ」
もっともらしい理由をつけて、ラプサンスーチョンを選ばせる。どう考えたって紅茶に不慣れな相手に飲ませるものではない。香りも味も、一般に想像される「紅茶」とはおよそかけはなれているからだ。正直なところ、自分はちょっと苦手である。
店員の口車にまんまと乗せられた彼が、どんな気持ちでそれを飲んだかはわからない。どきどきしていた。意地悪をしすぎたせいかなとも思ったけれど、どうやら違う。テーブルの上に置いていた拳のごつごつした感じを思い出すだけで、なんだか嬉しくなる。
そっか。自分がときめくのは、年上の男のひとだったか。
これまでの人生にあった疑問のすべてが答え合わせされたみたいで、むしろすっきりした。高校のときに化学のおじさん先生から目が離せなかったことも、下級生のかわいい女の子に告白されてしばらく気分が悪かったことも、いまなら納得できる。
そして信じられないことに、彼はふたたび店をおとずれた。自分のすすめたお茶を飲みに来たのだ。
好きだと思った。これはもう、好き以外にありえない。だからその日のうちに食事に誘われたときはどうしようかと思った。
高そうな店に連れて行かれたところで困る。こんな一般家庭から出た大学生が、テーブルマナーなんて身につけているわけがない。だから先手を打って、いつものハンバーガーショップへやや強引に足を進めた。
ここで品のない子だと思われて見限られたならば、それはそれでいい。試すようにして注文した安いハンバーガーのセットを、彼はいっしょに食べてくれた。
恋していた。
忘れないと思う。あの日、あの夜、お気に入りの場所で、彼に選ばれた瞬間も。
だから目の前で謝罪の言葉を口にする男をこれ以上憎めない。
たとえ自分を裏切った相手でも、一度は好きになったのだ。彼だって一度は好きでいてくれたはずだ。お願いだからもう、これ以上みじめなすがたを見せないで。
いいかげんにつくったドリンクを飲みながら、彼の言葉はいったいどこまで本物なのだろうか。
手持ち無沙汰になり、すでに磨かれたばかりのグラスを手に取る。つたない動作で拭き上げれば、かえってよごれてしまった。よごれたグラスはひとつずつ増え、自分が押しこめた小言の代わりとなってホルダーにコレクションされる。
もう恋人同士ではない自分たちには理由が必要だ。彼を許すための理由を探していた。このままでは、意地を張るだけの自分はまるで子どものままだ。焦って感情が誤作動を起こしたのか、無理な笑いがこみあげてくる。喉が痛い。
「馨さん」
その名前で、彼を最後に呼んだのはいつだっただろう。はっとして顔を上げた月ヶ瀬馨からは、あの日の面影が感じられた。
自分たちが、とにかく理由をさがしていたころ。これ以上いっしょにいる理由、肩をならべて座るための理由、つぎに会うための理由。ときには言い訳すらも理由とラベリングして、未来のためにストックしておかなければならなかった。
しかしそれも、恋人同士の関係になるとともに不要になった。理由づけをするほうが不自然だ。その代わりに、信頼という糸で結ばれ合わなくてはならなくなる。身体にまとわりつく糸はゆるくて、むずがゆい。動くことはできるけど、なんとなく呼吸が窮屈に感じる。結局おとなしく、ふたりのあいだにある糸が緊張しない距離を保って座っているのがいちばんいいのだ。
じっと座っているから、足首が重くなっていることには気づかない。相手が一方的に糸を引きちぎって去ったあとになって、身体に残った糸をはずしているうちに、重く昏い鎖の音でようやく自分がつながれていたと気づくのだ。
笑うことがだんだんと楽になっていく。みじめなのは彼ではなく、自分の方だと気づいたせい。笑っちゃう。だけど、彼にはどう映ったのだろう。
このままつながれっぱなしの自分に早く区切りをつけたいと思った。彼を許す理由が見つかって、よかった。
彼とそのあとなにを話しただろう。泣いてしまった自分は、ひどく無様だったように思う。それでもまだ彼はこんな自分を天使のようだと形容して、どこか嬉しそうだった。
天使だなんだのと口にすることは、彼にとって一種のマスターベーションだと思っていた。言われるたび、あなたが楽しそうでなによりです、なんて悪態をこころのなかでついていたけれど、いまとなってはどこか懐かしい。
涙をぼろぼろこぼして、最後はなにか指切りをして別れた。約束ごとをして、彼を縛りつけた。こんなには天使のすることじゃない。だけど、涙の視界が晴れるころには彼は行ってしまっていた。カウンターの上にぴんと伸びた新札が置かれていて、どこか嫌味のように感じた。
思いのほかぐずぐずに濡れてしまった頬をなでてがっかりする。あの男の思い出に残るのはきっと、自分の笑顔ではなくてこの顔だ。
せめて最後くらいは、ほんとうの天使でいたかったな。
「ただいま。遅くなってごめんね」
鷹揚に入り口のドアを開けてもどってきた対馬は、睫毛を濡らして突っ立っている自分におどろきもしなかった。
「なにかあったの」
その台詞はどこかしらじらしい。それでもカウンターの内側に入ってきたのを待って、ゆっくりと彼のシャツにしがみついた。
抱きしめ返してくれる腕はあたたかい。部屋まで送ってくれるときだけ嗅ぐことができる、あの香りがする。
自分はとっくに解放されたと思っていた。どこにでも行けると思っていた。しかし実際はただ行き場がないだけで、そのくせしっかり足枷がついていた。
その事実にようやく気づいて、はじめてほんとうの自由となったことを知った。
「対馬さん」
「なに? 穂希」
「明日からも俺は、あなたの家に帰ってもいいですか」
「もちろん。あそこはきみの家だ」
嬉しくて、でもつらくて、声を出して泣いた。子どもみたい。子どもの自分は涙に濡れたくちびるを目の前の男におしつけて、いちどだけ「ありがとう」とつぶやいた。
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