1、世界

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1、世界

 空が白みはじめる時刻、ジャンプバイクとともにコハクは家を出た。エンジン音がアメの耳に届かないだろう場所まで押してゆき、ゴーグルとヘルメットを装着する。手にグラブをはめる。 「目は露出した臓器だから、ゴーグルは特にちゃんとつけろ」  アメは難しい言葉で注意する。でも意味はわかるから、その通りにしている。  ジャンプバイクは、悪路の走行を前提とした、簡易なフレームと大きなタイヤからなるバッテリ充電式の電動バイクだ。ぱっと見、自転車によく似ていて、なかでもサーファーが愛好したというビーチクルーザーにそっくりだといわれている。  そのシンプルなつくりから、誰にでも簡単に乗れそうにみえて、乗りこなすには相応のテクニックと経験が必要だ。この何が起きてもおかしくない世界で、整備された道路を安全に走行できることなどまれなのだから、なおさらだった。    先月、街はずれの森の中で、地雷で吹っ飛ばされた少年の破片がみつかった。少年を特定できるものは何一つ発見されなかった。  ニュースを聞いたコハクは、すぐにそれがデリバリの少年で、近道のため森に入ってやられたのだとピンときた。地雷が先か略奪が先かは、ニュースではわからなかった。  自分と彼との差はほとんどない。コハクだって危ないとわかっていながら森をぬけ、やばそうな奴に追いかけられたこともある。ニュースがアメの耳に入っていなければいいと思う。  嫌なニュースが流れてくると、いつもコハクはアメと口論になる。  アメはどうにかしてコハクの仕事をかえさせたいと思っており、ことあるごとにコハクにくってかかる。 「コハクにだけ危険な仕事させて、俺だけのうのうと学校に行くなんて耐えられないんだよ!」 「俺はお前の兄ちゃんなんだから、働いてお前を養うのは当然だ」 「たいして違わないだろ。それに本当の兄弟じゃない」  口論はいつだって平行線だ。  アメは学校をやめて働くと言ってきかない。コハクはそれをがんとして許さない。  このところ、アメの笑顔を久しく見ていなかった。顔を合わせればぶつかる。仕事へ行くにもこそこそと家をぬけだす始末だ。  コハクは大きなため息を一つつくと、バッテリを車体にガチンとはめこんで、バイクのロックを解除した。エンジンをかければ、ジャンプバイクはドゥォーン……ドゥォーンと陽気にうなる。その様子は、かまってもらいたくてたまらない仔馬みたいだ。 『乗って、はやく、コハク、あそぼ、はやくはやく』  はしゃぐ姿に、コハクの憂鬱はあっさりふきとんでしまう。 「いつの時代も男の子は、こういうものが好きだねえ」  この軽量合金の乗り物を初めて手に入れた時、あまりに興奮するコハクの様子に、祖母は笑った。そして突然涙を浮かべた。 「お前を働かせなくてはいけないなんて。まだほんの子どもなのに」  誰にでもできる仕事ではない。荷物のほとんどが信書や薬を含む医療関係の物資や文書だ。給料もよい。その分他のデリバリに比べて責任も危険も大きい。  その金で祖母を楽にさせてやれるし、弟のアメを上の学校に進ませてやれる。  メディカルファーマシーの正規の配達員になれたことで、有頂天だったコハクは、祖母が泣き崩れる姿に頭が混乱した。  もう五年も前のことだ。コハクが十一、アメは九才で、祖母は生きていた。
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