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「だから、来るな、と言っている」
マーサはすでに荷造りを済ませていた。ジェニを着替えさせ、卵型のキャリーベッドに膝を抱えるようなポーズにして寝かせた。手伝うというコハクの申し出を断り、てきぱきと処置をしてゆく。
ぐったりと動かないジェニの扱い方に慣れた様子を見ると、疎外感が爆発しそうだった。
「なぜ」
冷静さを欠いた声がでた。
「おまえはあの男と行くんだ。軍にいるんだろ。正規兵のパートナーは優先的に国外に行けるはず。うまくやりな。男一人くらい余裕で転がせるだろう」
コハクはカッとなった。一方的に話すマーサに、無言のまま唇をかんだ。
「一緒に行く」
「ダメだ」
「……どうして」
「コハク、よく聞きな。これからわたしは一族に追われる。お花みたいなあんたを連れて行くのは目立つ。ジェニの身体はそのうち生命活動をやめるが、その所有権はすべて一族にある。奴らはこの継ぎはぎが成功したレアな生体を医学に貢献……、つまりまた生体実験に使うだろう」
「ジェニはそれを」
ジェニの顔は少し微笑んでいるようだった。
「もちろん知っていた。脳が死んだら身体などどうでもいい。好きにすればいいと言っていた」
「……」
「嫌だろ?」
コハクは深くうなずいた。
「いくら中身がないといえ、ジェニはジェニだ。それに、そもそも身体はジェニのものじゃない。たまたまジェニに適合した運の悪い誰かなんだ。いいかげん、≪彼≫を一人にしてやりたい」
コハクはまた、強くうなずいた。
マーサはふっと笑って、「だからおまえはおまえで行くんだ。わたしはこの身体をいじられたくない。ジェニは感傷的だと笑うだろうが、あいつは死んだ。最後くらいわたしのわがままを通させてもらう。……ふふ、あんたの目ときたらまるで大きなビー玉だ」と言った。
真剣に話を聞くコハクの頬をなでた。小さな子を諭すような優しい様子に、心がゆれる。
「いいね? うさぎと行くんだ」
「嫌、だ」
「……は? なんだって?」
一転、恫喝するような、地の底を這うような声になる。コハクは負けるもんかとはっきりと言い返した。
「俺も行く」
「ききわけの悪い子は嫌いだよ」
マーサの声がさらにワントーン低くなった。
「わたしはお前が邪魔だ、と言っている」
「能勢はVIPだから、能勢と一緒だと出国中は治外法権になる。俺が能勢に事情を話し、ジェニをかくまってもらえば一族の手は届かない」
マーサは、腕を組んで仁王立ちだ。
「最初からそうするつもりだ。ただコハク、おまえは来るな。船の出港時刻に『遅れる』んだ。能勢には後でおちあえるだとか、適当に言って宥めるから心配はいらない。船がでてしまえば、能勢もあたしたちを途中で放り出したりはしまい。能勢の国に行ければこっちのもんだ。うまくやるさ。お前が最後まであたしとジェニに付き合う必要はない。好きな男と一緒に行きな」
「そんな、マーサがいくら強くても一人でジェニを連れてくなんて無茶だ」
「誰か雇うさ」
「俺を雇ってよ」
「バカを言うんじゃない!!」
マーサはコハクを怒鳴りつけた。それをかわぎりに激しい言いあいになった。
「ああ忌々しい。これはただの身体だ。自由にしていいと言っているのに、おまえはどうしてそんなに頑なにこだわるんだ」
「マーサだって!」
理屈もなにもない。どちらも一歩も引かずらちがあかない。
売り言葉に買い言葉、カッとなったマーサは、丸くなって眠るジェニ越しにコハクをひっぱたこうと、右手を振り上げた。振り下ろしたその手をコハクはよけた。
「くそっ」
間髪入れず逆方向から左手が飛んでくる。それもよける。
「殴らせろ!」
「嫌だ!」
「おまえはジェニをわかっていない!!」
「……」
「そもそもおまえが選ばれたのは『次の身体』の候補だったからだ」
「……なに」
「特区に来てすぐ検査をしただろう。始まりはジェニのヴィジョンだった。探していたんだ。次の依り代を。結果、おまえは合格した。ジェニは大喜びだった」
コハクは目を見開く。マーサはコハクから目をそらさなかった。
「なぜ、それを今」
「何度も言っている。おまえはもう用済みで邪魔だからだ。……ジェニが死んでラッキーだったな。うつわにされずに済んだ」
「ジェニは、……、」
コハクは何か言いかけたが、まとまらない。
「さよなら、コハク」
最後通牒のようなマーサの別れの言葉に、コハクは何も言わず部屋を出た。飲み物を買うため席をはずして戻ってきたうさぎと、ドアを開けたところでぶつかりそうになった。
「うさぎ、行こ」
「え、どうし……、いいの?」
マーサとコハクの間に漂う重苦しい雰囲気に戸惑った様子だったが、うさぎはマーサに買った飲み物をテーブルに置き、コハクに手をひかれて外に出た。
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