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かつてジェニが好きだと言ってくれた服を身につけて、ジェニに会いに病院に行った。帰りの足でそのまま、コハクはうさぎを呼びだした。
袖口のカフスボタンに装飾があり、長さのある細いリボン紐がついていて、それが揺れるのをいつもジェニは「ロマンチックだ」とうれしがった。
椅子に腰をかけ足を組むと、重ね合わさっているせいで主張しなかった深いスリットがあらわれるのもジェニを喜ばせた。
全体的な印象は、祭祀を司る神官、もしくは魔術師のように禁欲的だ。薄手のロングコートに似たシルエットはシンプルだったが、動きとともにおこる衣擦れがすべての所作をとても優雅にみせる。たくさんのパーツでできた、複雑なつくりの服だ。
うさぎと待ち合わせのジェラートショップは閉店していて、窓ガラスにひびが入っていた。がらんとした街に一人たたずむと、かつての賑わいが嘘のようだ。
このところ毎日のように発生しているデモも、今日はなりをひそめている。未明に、政府による大規模な「狩り」が実行されたせいだ。
また、政府は「治安維持のため」市民に外出制限を強いている。人々は秘密警察を警戒して互いに目をそらしながら足早に歩いている。祭りの日から一か月もたっていないのに、街はがらりと様相をかえてしまった。
コハクは、初めて訪れた時の特区を思う。美しく整備され、人々は顔を上げて歩いていた。
「ごめんこんな時に」
事態はいつも予告なく一気にすすむのだ。
「とにかく建物の中に入ろう」
いや、本当は再三予告されている。ただ自分たちはそれに耳を貸してこなかった。
「ううん、すぐ済む、ここで。……能勢のところにいくことに決めた。それを直接伝えたくて」
「そう……」
うさぎはほっとしたようだった。予想通りの反応に、コハクはくすっと笑った。
「ただし条件がある」
「条件?」
「俺が能勢と一緒に行けば、うさぎは助かるんだろ? ならうさぎは最後に俺のいうことをきかなくちゃだめ!」
コハクは、いきなりうさぎに抱きついた。
うさぎは直立不動だ。コハクは数秒間、うさぎを感じた。これで十分だ。
「もうまとわりついたりしない。大人しく能勢のところに戻る。数日中には特区を離れる」
コハクは楽しそうに言う。楽しそうに聞こえるといい。
「もうお別れだから今日だけ、最後だけ、見送ってほしい。俺の姿が見えなくなるまで」
「……それは、」
「うさぎにしかできないことだよ。じゃあさよなら。元気で」
ひらひらと手を振る。袖口の細いリボンが風にたなびく。別れの日にこの服でよかったと思った。
うさぎが見ていてくれているなら、このちょっとかわった服のこの袖のリボンがゆれるさまが、特区での思い出としてうさぎの記憶に残るなら。
……うさぎは約束どおりこっちを見てくれているだろうか。背を向けてすぐにでも振り返りたい衝動に襲われるが、耐えた。
しかし、その数秒後にどうしても我慢できず、一度だけ振り返った。
うさぎはちゃんとこちらを見ていた。
口の中で、すき、とつぶやく。
コハクは再び足を前に動かして、そして止めた。もう一度だけ振り返ろうとした。なぜかできなかった。
かわりに前を向いたままで手を振る。揺れるリボンを見てなんとか自分の機嫌をとった。
さあ行こう、と思った時に、背後から足音が聞こえてきた。
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