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いつからか僕の涙には、価値というものが失われたのだと思います。
この、小さな小さな木箱のような部屋の中で、僕はずっと独りで泣いていました。あの日から三年間、ずっと、ずっと。両の眼からこぼれ落ちる涙は、僕を冷たく包み込むシーツを絶え間なく濡らし続け、無機質な純白の天井は、その様子をただじっと見つめているだけでした。はじめ、僕が涙を流すたびに手を握ってくれた母も、兄も、家政婦の沢木も、いつしか僕のことを埃かぶった人形のように見るようになりました。誰も彼も、僕の涙に価値を見出さなくなったのです。僕自身、泣いて何かが変わるわけではないことを、とうの昔にわかっていたはずなのですが、死に対する恐怖と、自身の脆弱な身体に対する憎悪は、とめどなく流れる涙を止めることを許してはくれませんでした。
ただ、父だけは違ったように思います。父は仕事柄、世界中を転々と飛び回る人間で、家に帰ってくるたびに僕の部屋に珍しい本を届けに来てくれました。僕はそれらの本を目にするたびに心から嬉しくなり、そして痛烈な悲哀の感情を腹に溜め込むこととなりました。
僕は、本が嫌いでした。
齢にして八つのときにかかりつけの医師から、もってあと数年だと言われ、それ以来僕は書物に触れることはありませんでした。絵本や小説が大好きで、幼いながらに本の虫だと呼ばれていた僕は、妄想の世界に入り浸ることに嫌悪感を覚え始めたのです。僕が覚えている限り、本の登場人物は皆たいへん偉大でした。自らの故郷を守るために、己が身一つで龍を討伐したり、絶対に解決することのできないとされた迷宮入りの難事件を前に、鋭敏なる推理によってその謎を暴いたり。主人公は皆僕の憧れで、そして僕は主人公になり損ねた、出来損ないの人間でした。僕はついには何も成せないまま死ぬことを知ってしまい、その理想と現実の乖離から、いつしか本を読むのをやめてしまいました。
本を読むのをやめてからは、死を切望するだけの毎日が、連綿と続くだけでした。
窓一つない、もはや牢獄とさえ言えるその部屋で、僕は何をするでもなく、思案に耽ることもなければ絶望に抗うこともなく、じっと黙り込んで天井を見上げていました。そうやって、さながら屍のように振る舞えば、死が勝手に迎えにきてくれるはずだと、僕は信じるしかなかったのです。残された僅かな日々をこうして浪費し続けた僕は、時に理由なく流れる涙を滑稽に感じ、しばらく笑っていたことさえありました。ただただ乾いたその笑い声は、自分の耳で聞いてもなお、不気味なものでした。
そして僕は、そんな日々についには飽いてしまいました。
確実に衰弱していく身体は、今やもう見るに堪えないほど肉を失い、その色もまた気味の悪い青白さを醸していました。間もなく、沢木の作ったスープを口にしても何の味も感じなくなり、僕は絶望感に浸るわけでもなく、ただ「つまらないな」と思いました。これまでも死と隣り合わせの日々を送ってきたつもりでいた僕でしたが、こうして一つの感覚を失って初めて、死の本当の意味を知ったような気がしました。この日、僕の味覚は死に、同時に、今後自分はこうして一つ一つの人間としての機能を失いながら死んでいくことを悟りました。自身のゆく果てを知ってしまい、まず感じたことは、「退屈」です。あれほどの自らの死への執着は、結局のところ、死すれば何かが変わるのではないかという稚拙極まれる一縷の望みのもとにあったのだと理解しました。
僕は死んでしまった味覚を前にして、僕自身が今後どのように振舞うべきかについて、もう一度よく考えました。そして思い当たったのは、ひょっとすると僕のこれまでの振舞いは、過度なほどに大人しいものだったのではないかということでした。どう思い返そうにも、僕は両親や兄、沢木に対して我儘を言うことはいかなる時にもありませんでしたし、病気や死に対しても、やはり寛容であり続けていました。心のどこかで、仕方のないことなのだと折り合いをつけていたのだと思います。そうせざるを得なかったのもまた事実です。そうした結果があのような、ただ死を待つだけの日々を作り上げていたのでしょう。
だから僕は、ほんの少しだけ我儘になることを決意しました。
この身体もあと一年持つかどうかさえわからないのなら、最期ぐらいささやかな横暴をしたとて、罰は当たるまいと思ったのです。俗にいう冥土の土産というものでしょうか。とにかく僕は、これまで押し殺してきた欲望の僅か一握りを開放することに決めました。
果たして僕が本当にしたいことはなんだろう。少し考え、第一に思い浮かんだのは、食事についてでした。数年来、僕が口にしてきたものといえば大変味の薄いスープや粥、ひとかけらの果物程度のもので、それらはすべて僕の健康状態について考えて作られたものでした。当然、僕はそんな味気ない食事を楽しむようなことはありませんでした。幼いころ、クリスマスの晩に食べた七面鳥の味が忘れられず、もし叶うのならば、あれをもう一度口にしたいと思っていたのですが、しかし味覚を失った僕にはもはや叶わぬ夢となってしまいました。
自身の小さな我儘を許した矢先に、それさえ叶えられることのない無慈悲な現実を叩きつけられ、僕はまた悲しくなりました。
だからといってここで引き下がれるほど、僕の意志は弱いものではありませんでした。ほんの少しの我儘を、という僕の思いは意固地と言っても過言でなく、もはやその行為こそが自分の生きた爪痕を残すことになるとさえ考えていたのです。
結局僕は思い立った翌日の夜更けには寝床を抜け出し、闇に包まれた館を徘徊することとなりました。家内が寝静まった深夜二時、寝間着の上に外套を羽織った僕は、裸足のままでそっと部屋を後にしました。
ひた、という自分の足音が廊下によく響きました。自らの首筋を通り抜ける霜月の隙間風と、灯り一つない常闇の廊下はいずれも冷酷で、まるで刃先の鋭いナイフのような緊張感を放っていましたが、僕にとってそれらは恐怖の対象には成り得ませんでした。長らく心に棲みついていた死の恐怖と比べれば、それらは煌々と照り輝く暖炉のように暖かで、忘れかけていたその感覚に僕はひたすらに興奮しました。
少し歩くとそこは目当てのキッチンでしたが、そこに行き着いた時点で僕の息は絶え絶えになっていました。またも自らの衰えを感じる瞬間ではありましたが、僕はぐっと堪えて重い扉を開けました。数年ぶりに訪れたキッチンは、その内装を少し変え、新調された戸棚の数々は勝手の悪いものでした。しかしもっと残念なことに、どこを探しても目当ての七面鳥は存在しないのです。それどころか、しばらく口にしていないパンや菓子も見当たらず、探し疲れた僕は床に伏し、しくしくと涙を流しました。ただ、これまで流してきた無機質な涙とは打って変わり、一粒一粒に重みのあるようなその涙の価値を、明確に自覚できていたことだけが、唯一の救いと言ってもよかったでしょう。
ここまで来るのに歩き疲れ、加えて泣き疲れた僕は、よしんば何を口にしたとて味はしないのだからと、諦念じみた負け惜しみを心に秘めながら、あの感情のない部屋に戻るべく、キッチンを辞さんとしました。その時僕は、戸口の脇に置かれた小さな花瓶台の淵に、こぢんまりとした紙の箱があるのを目にしました。自身の痩せこけた手のひらに収まるほどのそれからは、幾本かの筒状のものが出てきました。しばらくその筒の正体について考えていましたが、ふと、それに見覚えがあることを思い出しました。以前父が咥えているのを目にした、「煙草」というものでした。かつて僕も味わってみたいとせがみましたが父は体に毒だからと言い、ついにはそれを許してくれませんでした。
今、僕はただの一人で小さくないキッチンの隅に立ち、醜い掌の上で枯草の入った筒を弄んでいます。父は誠実な人間で、そのせいあってか仕事でも成功を収めた人間ですから、きっと嘘はつかないでしょう。体に毒だという父の言い草に偽りは感じられませんから、僕にとってはこのまま去ってしまうことこそが正しいことなのでしょう。
僕はただ悲しい気持ちで、心の中でごめんなさいと呟きながら、幸か不幸かそこに置かれた燐寸箱を左手に、自室に戻らずに庭へと向かいました。右手には、数本の煙草を孕んだあの小さな紙の箱をつかんだまま。
数年ぶりに訪れた館の庭園は、以前より小さく感じて、僕は何も為さないままただ成長してしまったのだと思い知りました。月明かりに照らされた池を覗くと、そこには骸のような顔つきの、少年とも少女ともにつかない何かが、ひたすらに双眸を濡らしているだけでした。
煙草を一本、口に咥え、震える手で燐寸に火をつけることを試みましたが、幾度擦ろうとも自らのか弱き力では、その先に灯りが灯ることはありませんでした。シュッという良い音を立て、やっと火が付いたかと思えば、すぐに夜風にさらされて消えてしまいました。明確に死を連想させたその小さな炎をとく忘ればやと、先の黒く焦げた小さな棒切れをすぐさま池に投げ入れ、僕は木陰に駆け寄ってもう一度燐寸を擦りました。残すところあと五本となった燐寸箱の中身を見て、少し不安になりましたが、二度目に火のついた燐寸棒は、今度は煙草の先を紅く灯すまでその灯りを絶やしませんでした。
僕は父の見様見真似で煙草をふかし、その煙が肺に溜まることを自覚する前に、咳きこんでしまいました。少しの間まともに息をすることすらできませんでしたが、僕は懲りることなく、何度も筒を介して呼吸を試みました。しばらくするとその慣れない感覚にも順応し、気がつくと僕の視界はぼうっと霞んで見え始めました。口や鼻から出る煙は僕自身が呼吸をしていることを明確に表し、もう何年も感じることのなかった生の実感というものを与えてくれました。そうして夢か現かもわからない精神状態のまま、僕はもう一度池のほとりまで足を運び、満月のまばゆい光を反射するその水面を、再度覗き見ました。不思議なことに、そこには先刻まで佇んでいた醜い骸など存在しませんでした。
そこにいたのは僕で、そして僕ではありませんでした。
僕とは明らかに年の離れたその青年は、肉付きのよく、口元には優しい微笑みを携えて、ただじっと僕のほうを見ているのでした。その右手に抱えた厚い本は、僕の部屋で一度も開かれることなく埃かぶっているものと同じ題を示していました。はじめ、彼は父の青年期の姿かと思いましたが、なんとなく僕にはそれが将来の自身の姿であると気づきました。何故だか僕には、そう思うことこそが自然だと感じたのです。
刹那、頭の奥にずきりという重々しい痛みを感じ、僕はつい口から煙草をこぼしてしまいました。波のない池に吸い込まれるようにして落ちていった煙草は、じゅっと小さく音を立てて沈み、同時に眼前に映った凛々しい僕もまた、消えてしまいました。それでも僕は焦ることなく、ただ落ち着いて再び煙草に火をつけました。風のなくなったその時には火をつけることなど容易いことでした。ふう、と煙を吐き出すとまた、水面には先刻と同じ僕が映っていて、その口元には優しい微笑を変わらず携えていました。
どれほどの時間が経ったのでしょうか。僕はただ恍惚と自身を見つめ、水面の向こうの僕もまた、包み込むような温かい眼差しで僕を見つめてくれました。そうしている間に僕は実に三本の煙草を消費していて、今口に咥えているのが最後の一本となってしまいました。さてどうしたものかと困りあぐねていると、水面に映る僕は指先で月を指し示しました。それに応えるように僕が宙を見上げると、そこには揺蕩う煙が月光に照らされ、踊っているように見えました。否、たしかに踊っていたのです。煙は先ほどまで水面に映っていた僕の形を成し、彼はしばらくそこで舞っていました。美しくきらびやかなその舞いは僕を虜にし、いつしか口からこぼれ、地に落ちていた煙草のことなど頭にはありませんでした。
僕もああして華麗に舞うことができたなら。僕が僕を眺めながらそう思った矢先、煙の僕はすっとその右手を僕に差し出しました。その誘いに僕が応じないことなど、あるはずがありませんでした。
満月に照らされながら僕は、ただひたすらに宙を舞っていました。自由に体を動かし、表現し、息を切らし。生きることは素晴らしいことなのだと、僕は生まれて初めて知りました。月の光はスポットライトのように僕を照らし続け、僕は自身の輝きに惚れ惚れとしていました。脳を蝕む、ずきりとした痛みのことなど忘れて。
喋ることを忘れた僕の口から出た言葉は、錆びた鉄のような不快な香りを醸し、朦朧とする意識の中でその景色をとらえんとする両の眼は、もはや何の像も映してはいませんでした。
それでも僕は、絶えず舞い続けました。煙のように高く上りながら、僕は僕と、華麗に踊り続けました。高く、高く。月へと向かうように。
*
踊れや踊れと言わんばかりに
煌々と暈を放ち続ける月
どろりとした心臓の感触とは裏腹に
純白の夜空に舞う僕の体は
あの懐かしい一節みたいに完成されていた
口の中は蕩けたチョコレイトみたいな味がして
たまにこぼれたその味は
林檎のように紅く輝いて星になった
無い頭が割れるように痛い
聞こえない音はお父さんの声で
ずっとあの懐かしい一節を繰り返している
「ごめんなさい」
世界がそう言って涙を流すから
僕は彼を抱き寄せて小さく笑った
「君は弱いね」
僕の言葉に世界は照れ臭そうに笑っていた
しばらくして何も無くなった僕は
両手にすべてを抱えて
月に向かって真っすぐ飛んだ
小さくなっていくお父さんの声に反比例して
月の光はみるみるうちにまばゆくなっていった
「さようなら」
僕は
ついには僕を愛さなかった世界に別れを告げて
あの懐かしい一節を唱えながら
月の差し出した手に僕の手を伸ばした
(あッ)
そして、堕ちた
またお父さんの声が聞こえる
*
僕は、目を醒ましてしまいました。しかしそこは月でもなければ池のほとりでもなく、あの感情のない、僕を閉じ込める役目しか持たない忌まわしい自室でした。唯一いつもと違うのは、僕のベッドの脇に腰かけ椅子が置かれていて、そこに父が座り込んで眠っていることでした。今がいつ何時かさえわからなかった僕は、一先ず体を起こすことを試みましたが、重い音を立てながら軋むような頭の痛みは、それを許してはくれませんでした。
僕は頭痛に苛まれながら、眠りに落ちる以前の記憶を呼び起こそうと努めましたが、覚えていたことは、禁忌を犯してキッチンに忍び込んだことだけでした。そして、欲しいものは何一つ得られなかったこともまた、おぼろげながらに記憶していました。しかしその後に僕は大人しく自室に戻ったのか、はたまた戻らずに館を徘徊し続けたのか、どう思い返そうにも思い出せないのです。
回顧に努めても埒があきませんでしたが、そうこうしているうちに父が目を覚まし、事態は進展するかに見えました。しかし父はただ茫然と僕の顔を眺めているだけで、しばらくの間、ただの一言も発しませんでした。
「ううっ……」
やっと口を開いたかと思えば、父はむせび泣きはじめました。僕は父に何か、言葉を投げかけようとしたのですが、しかして口からはなんの音も漏れ出でず、ただわずかに動く右手を、そっと父に差し出すだけでした。父はぼろぼろと大粒の涙を流しながら僕の手を弱い力で握り返し、こう言うのでした。
「もう目を醒まさないと……、お医者様から言われて……。すまない、私のせいだ。私が殺したも同然だ……。すまない。すまない……」
声は細く、そして小さくなっていき、僕の耳ではほとんど聞き取れませんでしたが、ただ父が僕に何かを謝っていることだけは理解できました。そして、すべてを思い出しました。あの満月の夜に僕が庭でした営みを。月が僕を照らしてくれたことを。そして世界は、最後まで僕を愛してくれなかったことを。
記憶に触れてもなお、やはりあの晩のことは夢なのか現なのかわかりませんでしたが、少なくとも僕はあの時、生きることの素晴らしさを感じ、同時に死を覚悟したはずでした。それでも僕は今ここで、虫の息とはいえなんとか生きていられていて。あの時僕は、月の輝きを手にすることができたはずなのに。奪うことしか能のないこの世界なんかに、未練なんてあるはずもなかったのに。僕は、死を選ぶことができたはずなのに。
あの時の選択を、僕は後悔しませんでした。父は僕の右手を両手で優しく包みながら、
「愛している」
と何度も何度も繰り返し呟きました。それは、もう長くないと宣告されたあの日の晩に、漠然とした恐怖に打ち震えて涙を流すことさえできなかった僕に、父がずっとかけてくれた懐かしい一節でした。
僕はただ、愛されたかっただけでした。
「僕もだよ」
言葉を発せていたかどうかわかりませんでしたが、それでも父が微笑んでくれたように見えて、僕は安心して眠りにつくことができました。その後、僕が目を醒ますことはありませんでした。
僕の十二歳の誕生日の出来事でした。
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