赤いアイシャドウにさよならを

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「あの」  うしろから不意に声をかけられた。若い男性のものだった。  え、なに。  ちょっとどきっとした。低音でやわらかな声音だったもので。  おまけに振り返って、もう一度どきりとした。  カフェラテのようなふわっとやわらかそうな薄いベージュの髪をした若い男性。微笑を浮かべている彼は、大層見た目が良かった。  こんな格好いいひとが一体なんの用事で。  なんの用事か聞こうと思ったところで、あちらから先に手を出された。 「これ。落としたろ」 「……え。あ」  落とした?  つられて彼の手を見ると、そこにあったのはピンクのハンカチだった。フチにちょうちょの刺繍があるそれは、お気に入りのもの。  バッグに入れていたはずだけど、入れ方が浅かったのか、ぽろっと落ちてしまったのかもしれなかった。 「あ、は、はい。私のです……」  手を伸ばそうとして、でもちょっと止まってしまった。お礼が先だろう。 「ありがとうございます」 「いいや」  彼はにこっと笑った。気にしないでくれ、とその笑顔だけで伝わってきた。  きっと社交的なのだろう。人好きのする微笑みだった。優しそうな笑顔に、私の心がとくりと鳴る。  こんな格好いいひとに微笑みを向けられれば、誰だって。  きっと同年代だろう。二十代半ばくらい……まだ若い。けれど子供ではない。  着ているものも洗練されていた。寒い折だ。明らかにまだ新しい部類の、ぱりっとした黒いジャケットに中は……ベストだろうかセーターだろうか。色はふわっとやわらかいグリーン。  立って向かい合っているので、下は良く見えないけれど、暗い色のシンプルなズボンを穿いているようだ。  どきどきとしながら手を伸ばして、ハンカチを受け取ろうとして、しかしそこで彼がちょっと変わった声を出した。あれ、とか、そういうものを口の中で呟く。  なんだろう、と思ったけれど、すぐに口に出してくれた。 「わり、汚しちまったかな。書き物してたから……」  え? 汚した? どこを?  不思議に思ってハンカチをよく見てみる。落としたときに、ぱさりと開いて乱れてしまったのだろう。  そして彼は私が店を出てしまわないうちにと急いで拾って差し出してくれたはずで。綺麗に畳んであるはずもない。  そしてそのちょっと乱れたハンカチ。はしっこがほんのり赤く染まっていた。  これかな。  思ったけれど、直後、かっと顔が熱くなった。書き物のペンかなにかで汚れたなんてとんでもない。 「あ……これは……」  アイシャドウ。  今となってはもう憎らしい、赤のアイシャドウ。  この店に来る前、一人でわぁわぁ泣いたとき、ハンカチで拭った。そのときについてしまったのだろう。  くっきりハンカチについてしまったほど色を乗せていたアイシャドウ。こんなに塗ったから振られたんだ。なんて思って、もっとわんわん泣いてしまった、ほんの一時間……いや、もう二時間? 近く前のこと。  そんなものを、みっともないハンカチを格好いいこのひとに見られてしまったなんて。 「ん? ……あ。悪い」  私の動揺を見て、もしかしたら顔を赤くしたのも見られてしまったかもしれない、彼はちょっと不思議そうな顔をした。  けれどそれは一、二秒しか続かなかった。  なにかに気付いた、という顔をする。  どうもそれがコスメの類、アイシャドウとわかったかはわからないけれど、そういうものがついた汚れだと気付かれてしまったようだ。  だからちょっと気まずそうな顔をして「悪い」と言ってくれたのだろう。  それがどこから気付かれたのかはあまり知りたくない。  崩れたメイクか、腫れてしまっていた目か、涙のあとか。 「す、すみません。ありがとうございました」  なんて目ざとくて、おまけに気の回るひとなのだろう。  恥ずかしいやら、気を使ってもらえて嬉しいやら。  おかげでちょっとだけ心が軽くなったような気がした。  少なくとも、表面上は微笑めるくらいは。 「お気に入り、だったんです」  ちょっと無理をしたものだったかもしれないけれど、微笑むことができた。  若い女の子がハンカチをコスメで汚して、おまけにこんな様子で。  このひとはどうやらこういうことを察するのがうまいようなので、それに甘えてしまった形にはなるけれど言った。 「でももう新しいのを買いますね」  赤いアイシャドウなんてもう見たくない。それがついたハンカチだって同じことだ。  帰ったらもう捨ててしまおう。ある意味、決別とするのに、いいことかもしれないじゃないか。そう思って。 「それじゃ困るだろうに」  しかし彼はよくわからないことを言った。  困るって、ハンカチなんてそのへんでいくらでも売っているじゃない。  私は思った。  なんならカフェの真ん前にある大きめのショッピングセンター『PARCA』でだって、適当なものならすぐ手に入るだろう。  きょとりとしてしまったけれど、そんな私に彼は何故か微笑んだのだった。 「新しいハンカチ。プレゼントさせてくんないかな」  私はもっときょとんとしてしまった。  プレゼント? 新しいハンカチ?  どうしてこのひとにそういうことをしてもらえるのだろう。  ただ偶然同じ店にいて、それ以上だとしても、落し物を拾ってくれただけのひとにすぎないのに。  けれど彼はなにもおかしなことなんてしていません、なんて顔で、もっと顔を崩す。 「これもなにかの縁だろ。俺、ちょうどPARCAに用があったんだよ。ついでついで」  そして私はそのまま。  流れるようにお会計を済ませて彼に店の外に連れ出されてしまったのだった。  夕方の駅前のロータリー。秋のほわっとしたやさしい色の夕焼けが満ちていた。
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