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いろどりの魔法
行ってみたい、と言った割には、車にでも乗せられてしまったら怖いなと少し心配していた。
そういうひとではなさそうだけど、残念ながら男のひとに対しては最低限の警戒心を持たなければいけないのだ。世の中には悪いひとも少なくないから。
けれどやはり彼はそういう、私が不安になるようなことはしなかった。
「二駅くらい乗るけどいいか」と、アトラを出てすぐの駅、地下鉄の駅へ入って電車に乗ることになったのだ。
普段私はこの駅ではJRを主に使っていたので、地下鉄はよく知らない。二駅先になにがあるかもわからない。
けれど多分そこに綺麗なスポットがあるのだろう。私は電車移動であることにほっとして、「大丈夫」と言っていた。
「悪いな、ちょっと上り坂なんだ」
駅を出て、歩きはじめた道のり。彼は私を振り返って、少しすまなさそうな顔をした。
けれど私は首を振る。立ち仕事なのだ。体力に乏しいわけでもない。おまけに幸い今日はヒールの低い靴を履いていた。これしきなんということもない。
「大丈夫」
言って、微笑んで見せる。
彼は「そんならいいけど」とちょっと困ったように笑って、でも足を数秒止めてくれた。
なんだろう、と思って、でもすぐにわかった。
ゆっくり歩いてくれるつもりなのだ。私を置いてけぼりにしないように。
ここで手を伸ばしてこないところがまた、普通の男のひととは違うような気持ちになってしまう。
デートやナンパだったら、手を繋ぐのに最適すぎる機会だろうに。
このひとはどういうつもりなんだろう。
気遣われたことに嬉しくなりつつも、私はよくわからなかった。
けれど秋の夕暮れ、やわらかな日差しの中を連れ立ってゆっくり歩くのは心地良くて。
十分ほどの道はすぐに終わってしまった。
そうして辿り着いたのは、絶景……とまではいかないけれど。街中で見られるものとしては上等すぎる紅葉模様であった。
「もうだいぶ色づいてるだろ」
「ほんとだね。ちょっと高いところから見たらこんなに違うんだ」
初めて降りる駅だったので、勝手がまったくわからなかったのだ。よってついてくるだけになってしまったのだけど。
「たまにこのへん、撮影で使うんだ。撮影っても、モデルを呼ぶようなやつじゃなくて、街中のさりげないカットが欲しいとか、背景素材にしたいとか、その程度のやつな。プロを呼ぶまでもないようなやつだよ」
オレンジ色や黄色が鮮やかだった。さっき飲んだ緑茶と同じだ、と思う。
まだ緑の部分もある木の色といいコントラストになっていた。やはり彼のほうがよっぽど風流ではないか。私はつい、くすっと笑ってしまった。
「なんだよ」
彼がこちらを見る。ちょっと不思議そうだった。
私は軽く笑みを向けて、言った。
「本当にさっき飲んだお茶みたいだなぁって。感心してた」
「なんか茶化すみたいだったけどな……」
彼の顔と言葉は不満そうになったけれど、それこそ『茶化す』ような表情であった。
それはともかく、隣同士並んで、丘の下に見える紅葉を堪能していたのだけど、彼がこちらを見たことでちょっと顔が近くなった。
触れるなんて距離ではないけれど、他人としてよりは数ミリ近い距離。
とくりと心臓が跳ねた。
本当に綺麗な顔をしている。女の子のように肌の手入れをしているかのように、肌はつやつやしていた。眉も髪もしっかり整えられていて、こんなひとが、もし。
……思ってしまったことに、顔が熱くなりそうになって、私はお腹の下に力を込めた。
いやいや、そんなことは駄目だから。
自分に言い聞かせる。
けれど彼は私のそれを崩すように言ってきた。
「緑茶みたいなシャドウだな」
どくんと心臓が跳ねた。
シャドウ、はアイシャドウに決まっている。女性誌の編集であるなら、コスメの種類がわからないはずはない。
だからといって、私がつけているそれを即座に見抜いてくるなど。恥ずかしいやら嬉しいやらだ。
そしてそれほどきちんと顔を見られてしまった緊張と照れも。
「そ、そう? せっかく、お茶を飲むんだからって……」
ありがとう、というつもりだったのに、それはもにょもにょと消えてしまった。心臓がうるさい。
こんなひとがもし。
……恋人だったなら。
さっき浮かんでしまった、それ。飲み込むつもりだったのに、もっと濃くなってしまった。
でも駄目だ。そんな妙な勘違いをしないために、今日はこのアイシャドウをつけてきたのだから。
このひとに本気にならないように。
ナンパではないだろうと、ここまで散々感じさせられてきた。彼の存在や振る舞い、すべてが、そんな軽薄な行為にまるで似合わないので。
けれど、だからといってなにかしらの下心がないと、どうしていえよう。
そんな、二回目に会ったくらいで恋人だったらとか、今のようなことを考えてしまわないためだったのに。
振られたことなんて、わぁわぁ泣いた一時間後にこの彼と出会った出来事、そして二時間後に貰った緑のハンカチ、それらからもうすっかり薄まってしまって、水にカルピス一滴落とした程度までなくなってしまっていた。
だからといって。
私はそんなことばかりぐるぐると考えていた。あのカフェでハンカチを拾ってもらい、新しいハンカチをプレゼントされてから。そんなことばかり。
考えてしまう時点で片脚を突っ込んでいるようなものであったが、どうにもそれは認めたくない。
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