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「綺麗だな」
ぐるぐるしていたところへ言われて、かぁっと顔が熱くなった。このひとなら褒めてくれるだろうと想像していた。
いや、期待していた。本当に、自分が単純すぎてあきれるばかりだ。
「こ、こういうの、派手じゃないかな」
予防線、などと浅はかな考えで、敢えて色味のあるアイシャドウをつけてきたのは自分だというのに、つい言ってしまっていた。また甘えるようなことをだ。
彼はどうしてか、他人にそう言わせてしまうような雰囲気を持っていた。話術なのかなんなのかはわからないが。
「なんでだ? 俺は好きだぜ。よく似合ってる」
今度こそはっきり顔は赤くなっただろう。そしてそれを『他人の距離』より数ミリは近いところで見ただろうに、彼はしれっと笑ったのだった。
こんな口説き文句のようなことを言ってきたのに、まるでキザでも嫌味もないのが本当によくわからない。人柄としか言えないだろう。
「でも、……」
その優しい言葉と肯定に誘われるように、口をつきかけたこと。流石にためらってしまった。こんな情けないこと。
「いるよな、女のメイクは薄化粧に見えなきゃとか。そういう男」
ためらって飲み込んだのに、まるでエスパーのように知られてしまったらしい。そういうふうに言われた。
う、と詰まってしまう。
すべてわかられたはずはないが、男性のそういう態度に傷ついたというのが、あのカフェでのハンカチについた赤いアイシャドウは示していたと、そのくらいは伝わってしまったようなので。
そして私は本当は、わかってほしいのだ。聞いてほしいのだ。
彼に、聞き上手で、優しくしてくれて、心が上向くようなことをたくさんくれる彼に。
「女のメイクは清楚だ上品だ、すっぴん風であるべきだなんていう男は多いけど、そんなもんはくだらないね。その子の素材を生かしたメイクが一番いいに決まってんじゃねぇか」
彼ははっきり言ってのけた。
軽い口調だったのに、声はしっかり重くて、彼が強い意志と心でそれを口に出したことを示していた。
そういう思考でなければ化粧品も扱う女性雑誌の編集なんて仕事は務まらないのだろう。しかしたとえそういう理由であったとしても、そのときの私の心が、ふっと軽くなったという事実に違いはない。今、小高いここに小さく吹いている秋風に撫でられたようだった。
そしてそれだけでなく、どきりと胸が高鳴った。私に伝えたいから、だとはっきり伝わってきたから。
「なぁ、すげぇ綺麗だからしっかり見たい」
所望されたことには、今度心臓が飛び出しそうになった。
ここでシャドウパレットなんて出してしまうほど鈍くない。
まぶたに乗せた緑色を見せてほしい、ということだ。
急速にどくどくと心臓が速くなる。痛いくらいだ。
別に、アイシャドウを見せることではない。アイシャドウを見せるための行為が問題なのだ。
けれど。
……いい、のではないだろうか。
本気にならないように、なんて考えなくていいのではないのだろうか。
私の意識は一気にそちらへ振れてしまった。
彼の優しい言葉も、仕事柄の事情も詰まった真剣な信条も、伝えてきてくれた。
これはナンパでも慰めでも遊びでもなくて。
どくどくと心臓を高鳴らせながら、私はアイシャドウを『見せる』。
すっと、目を閉じた。
顔の前に気配を感じる。心臓はもう飛び出しそうだ。目をぎゅっとつぶってしまいそうなのを必死でこらえた。
見つめられている気配がした。まるで時間が止まってしまったかのように、永遠のように感じてしまう。
「すげぇ綺麗だ。色づく前の紅葉だな」
言われた言葉が私の口元をくすぐって、どきんと心臓が跳ねた。
そして私のその覚悟を読み取ったように。
すっとくちびるになにかが触れた。
それは一瞬だけ、風が撫でたようなやわらかさだった。
早秋の少し涼しい空気のような。
でも弱くなりつつある日差しのあたたかさも含んだ。
とても優しいキスだった。
飛び出しそうになった心臓だったのに、ゆっくり落ち着いてきてしまった。いきなりキスなんてして、顔も合わせられないと思ったのに、そっと目を開けて間近で視線がぶつかったとき。
私は理解した。
彼が綺麗だと言ってくれたのは、まぶたでもアイシャドウでもない。
私のことを、だ。
胸の中がくすぐったくなってしまう。体が熱くてならない。
このひとが綺麗だと評してくれるのなら。
私はきっとこのままでいい。
明るいトーンの色を身にまとう姿でいていい。
だってそれが、きっと私らしいのだから。
もうアイシャドウを捨てることなんてない。
ハンカチにアイシャドウをつけてしまうことなんて、もうないのだから。
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