ピンクのシャドウは、はじまりの色

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ピンクのシャドウは、はじまりの色

「これな、誰かにあげなかったか」  帰り道。少し風が冷たくなりつつあった中を駅に向かって戻ろうと歩き出すうちに、彼が手を出した。  ポケットに入っていたらしきそれは、ピンク色のアイシャドウ。濃いピンクと薄いピンク。典型的で簡単な、二色グラデーションのできるものだ。  私は不思議そうな顔でそれを見てしまった。  でもすぐに思い当たる。  二ヵ月ほど前に持っていたものだ。持っていた、もの。  彼の言う通り、あげてしまったのだ。  でも彼がどうしてこれを持っているというのか。 「あげた、けど……」  やっぱりか、と笑った彼はとてもやわらかで優しい笑みをしていた。 「あれ、俺の妹なんだ。ある日さ、目を真っ赤にして帰ってきて」  それからのことは、私も覚えていたことだった。  夏の盛りの頃。十代の終わりくらいであろう少女がお店の前に来ていた。  けれどお店に入ろうとする様子は見せない。  いや、正しく言えば、入りたいのだろう。  けれどためらっている。そんな様子。  気にはなったけれど、無理やり「どうぞ」なんてするお店ではないのだ。私は気になりつつも、なにもしてあげられずに日常の仕事をするしかなかった。  そしてそのうちに彼女は店の前を去ってしまった。  なんだったのかな。  少し気がかりであったけれど、そのあと私は休憩に入った。バックヤードへ向かうために、ビルの階のはしっこにある、従業員用のドアへ向かったのだけど……。  人目につかないような、そこ。  そこにさっきの女の子がしゃがんでいた。  気がかりだったのですぐにわかった。  そして心配になった。体調でも悪いのではないか。しゃがみこんで、顔を膝に突っ込んでいて、いかにもそういう様子だった。 「大丈夫ですか?」  私は彼女の前に、そっとしゃがんだ。彼女は驚いたように、びくりと肩を震わせて顔を上げた。私と視線が合う。  直後、私は驚いてしまう。彼女の顔がくしゃくしゃに歪んだので。 「わたし、……そのっ……、お、お店に、行かな……」  そのあとは涙声になってしまってわからなかった。  お店に行かないといけない。そう言いたいのはわかったけれど、一体どうしてか。  そういえば確かに彼女の傍らには、うちの店のショッパーが置いてある。  一瞬、万引きでもして、でも思いなおして返しに行かねばと思ったのではないかと疑ってしまったのだけど(稀にある事態なので)それは違うだろう。  だって服らしきものは、きっちりショッパーに入っている。ちゃんとレジを通したものに違いない。  ではどうして店に持ってこなければいけなくて、おまけにこのような事態になったというのか。  しかしこのまま、ここで話を聞くわけにはいかない。  私は彼女をバックヤードの休憩室へ連れていった。  本当はいけないのだが、テナントとしてもこのように取り乱しているお客を放り出すわけにはいかないのだ。少しだけ、と交渉して許してもらった。  そこで彼女がペットボトルの冷たい紅茶を前に、ぽつぽつと話してくれたこと。  憧れだったこのブランドのお洋服を、バイト代を貯めて買った。  けれど、全然似合わなかった。  友達にも微妙な反応をされた。  それでお母さんにも「あなたにはまだ早いから返してきなさい」なんて言われてしまった。  そのような事情だった。  一回着ていては返品はできないのだけど、問題はそこではない。 「大丈夫。似合うわよ」  私は笑ってみせた。彼女がこの服……秋色を先取りした、ボルドーのワンピースだった……それが似合わなかった理由。わかったのだから。 「メイクをしっかりめにすればいいの。学校に行くようなメイクとちょっと変えてね……ええと、例えばこういうものを」  スマホを出して、雑誌に載っているモデルさんやメイクのページを幾つか見せる。  まだ涙のあとがくっついていた、メイクを覚えたてといった様子だった彼女はそれを見ていくうちに、だんだん顔が明るくなっていった。 「それで、髪はこういう……ああ、巻くのは難しいから、動画サイトとかで『簡単ヘアアレンジ』とかを見るのがおすすめよ」  そんなものを見せ、簡単なコツを話しているうちに、彼女の涙が乾いた頃。私は持ってきていたプライベートのポーチからひとつを取り出した。  それはピンクのアイシャドウ。好奇心で買った、プチプラコスメだ。  最近のプチプラは侮れないので、試してみたかったのだ。そのとおりなかなか優秀で、このまま使おうかと思っていて、まだたった一回しかつけていないもの。 「使いかけで悪いけれど。あなたがあのワンピースを着こなせますように」  そう言ってその子にあげたもの。それが今、何故かここにいる彼の手の中にある。 「アイツ、あれから色々勉強してたみたいなんだよ。それで……兄贔屓ではあるんだけど、なかなか上達したと思うんだよな。今度、あのワンピースを着て新しいお洋服を見に行こう、なんてはしゃいでたよ」  まさかこういう繋がりがあったとは思わなかった。私は意外な接点にちょっとぼうっとしてしまったくらいだ。 「それで。これを優しい店員のお姉さんに貰っちゃった、って言ってた。だから返さないとって」 「そんな、……いいのに」  そんな律儀なことを言われれば、安物の、しかも使いかけを押し付けたことが恥ずかしくなってしまう。  よく見てみれば、彼が手にしているのはどうやら私のあげたものではなかった。  同じものだ。  けれど使っていないもの。  新品、のようだ。 「あのとおり、アイツ照れ屋だろう。どう渡そう、なんてもだもだしてたのが渡りに船だった。俺が声をかけるのに」  息を呑んだ。  繋がっているものはあったのだ。  まぶたを飾る、きらきらとしたパウダー。たったそれだけのものなのに、美しくひとを輝かせてくれる。 「あ、でもハンカチは偶然だぜ。落としたって声をかけたときは、誰なのかわかってなかったんだから」  彼は笑った。ちょっと照れたような笑い方だった。かわいらしいともいえるだろう。  なんでもスマートで格好良くて、よく気がついて優しくて、おまけに実際にそうやってのけた彼だけど。  こういう顔はきっと彼の一番中心にあるものなのだろう。  そしてそういう顔をもっと見たいと思う。  目を閉じてではなく。  まぶたに乗せたきらめきを味方につけて、そうある私を綺麗だと言ってくれる人を。
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