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我を救いたまえ
あの人が私に直接手を上げたのは、たった一度だけだった、と言ったらルースは、又私が彼を庇っていると腹を立てるのでしょうけれど、本当に彼に私を傷つけるつもりはなかった。少なくともその時までは。
職探しの為に、昔の知り合いに連絡を取っていたのがバレてしまって、その相手が間の悪いことに男性だった。言い争いになって、お互い頭に血が上っていたのだと思う。彼は私の手を振り払おうとしただけ。それが勢い余って私は倒れ、運悪く頭をマントルピースの角にぶつけた。
あれは事故だった。
でも私を心配する、その唇は笑っていた。綺麗な青い目は輝いていた。私が流した血はルース曰く彼を「目覚め」させた。そしてそのことに彼自身も気づいたと思う。それまでは、例えば極寒の冬の日に、薄着の私をうっかりバルコニーに閉め出してしまう、とか、ベッドで首を絞めて意識を落とさせる、とか、子供の悪戯のような真似で、それなりに満足していたのに。
怪我は見た目が大袈裟なだけで大したことはなかった。ルシアンは私を病院に連れて行こうとしたけれど、私は必死で止めてもらった。夫に怪我させられたなんて言うつもりはなかったけれど、妊娠していることがわかってしまうかも知れないのが怖かった。
それから間もなく、旅行に誘われた。怪我のお詫び気持ちもあっただろう、それとももっと別の思惑があったのかも知れないけれど、今ではもう分からない。
私はそれを最後に彼から逃げるつもりだった。
正式な離縁とか仕事とかは、もうどうでも良くなった。彼に子供が出来たことを気づかれる前に、逃げなければいけなかった。
でも旅行中のルシアンは、とても優しかった。いつも優しい人だったけれど、この時は更に朗らかで、ずっとにこにこ笑っていてくれた。
彼は私と過ごせるのが嬉しいと、口にも態度にも示して、私が同じように楽しめるように心を砕いた。それは私に手を上げてしまったことの反動、さすがに気が咎めているのだろうな、と思ったけれど、もしかしてずっとこのままで居られるのではないかと、子供と彼と私と三人で、幸せになれるかも、と甘い幻想を抱かせてくれた。
短いけれど、幸せな夢だった。
私は何も特別なものが欲しかったわけじゃない、と思う。私はただ、彼といつも笑顔で暮らしたかった。
滞在先に彼が選んだのは、ロンドンから二時間半ばかり、周囲を森と牧草地に囲まれて、民家は見当たらないようなところにある、緩やかな丘の上の古いコテージだった。
まるで世界にたったふたりだけになってしまったような、およそ彼らしくないところだった。南仏のリビエラやニース、イタリアのカプリ島のような華やかなリゾート地を好む彼が、何を気に入ったのか、最初はわからなかった。
しかし一見、田舎染みたコテージだったが、内部はモダンに暮らしやすく改築されていて、裏手のテラスからは直接湖に降りられるようになっていた。
「泳いでみない?」
と、それは妙にはしゃいでいて、日頃の落ち着いた彼らしくない物言いだった。
「まだ水は冷たいでしょう?」
英国の夏は涼しい。日差しはきつい日だったけれど、湖の水温は決して泳げるほど上がってはいないだろう。私は無意識に、まだ膨らむ気配も見せない腹部を撫でていた。彼に気づかれる訳にはいかないが、だからと言ってお腹の子に危ない真似はしたくなかった。何とか言い抜けないといけない。私は必死で頭の中で上手い言い訳を考えた。
「それに、お昼にワインを飲んだばかりじゃないですか。危ないですよ」
「でも、君は飲んでいないよね?」
「え?」
「君は、ワインを飲んでいなかった。口をつけて、飲むふりはしていたけれどね。ちがう?」
彼が何を言おうとしているのか分からなかった。彼は柔らかく微笑んで、ゆっくり、噛み含めるように言った。私は慎重に言葉を選んだ。
「••••••実は少し風邪気味で。あなたを心配させたくなかったから、言わなかったのですけど。ごめんなさい」
「大丈夫かい?」
彼は私の額に手を伸ばし、優しい仕草で前髪をかき分けた。
一緒になって何年もたつのに、その間に軟禁されたり殴られたり、思えば相当な目にあっているのに、それでも私はまだ彼に触れられるとドキドキした。初めてこの青い瞳に見つめられた日みたいに、頬が熱くなった。
「少し熱いね。熱があるのかもしれない。」
「大丈夫」
けれど次の言葉で、血の気が一気に引いた。
「気をつけようね。もう君一人の体じゃないのだから」
「••••••何を言っているの?」
彼は私の手を取り、私の目を真っ直ぐ見据えたまま、手の甲に口づけた。
「嬉しいよ。楽しみだなあ。待ち切れないよ」
誤摩化そうと思った。あなたの勘違いだと笑おうと思ったのに、体が震えて歯が鳴り、気がついたら口が動いていた。
「どうしてわかったの?」
「やっぱりそうだったのか」
と彼はひどく嬉しそうに笑った。
「誤解しないでね。僕は喜んでいるのだから。女の子がいいね」
「ルシアン、話しがあります」
彼は私のお腹を満足そうに撫でた。さっきまで優しく暖かだった彼の手が、突然冷たい刃に変わった気がした。
「君に似た、綺麗な女の子が産まれるだろうね」
ああ、もうだめだ、と思った。彼に知られてしまった。
「やっぱり、顔色が悪いね。少し休んでいなさい。僕は外の空気を吸って来るから。帰って来たら、ちゃんと話しをしよう」
私は出て行く彼を見送り、殆ど無意識にテーブルの上のコーヒーカップをキッチンに運んでいた。まだ手が震えていた。カップとカップがぶつかって歯が鳴るような音を立てた。
窓から、湖へ歩いて行く彼の後ろ姿が見えた。
もう、逃げられない。
彼が憎いと思ったのは、これが初めてだった。これまで彼にどんな目にあわされても、彼を憎んだことはなかった。
そしてこんなに誰かを憎んだこともなかった。
私は何かを求めるように腹部を幾度も撫でた。私は死ねない。
絶対に、絶対に。
その時、彼が振り返った。
そのあざやかな青い瞳で、射抜かれたような気がした。私は思わず後ずさって、後ろの冷蔵庫の強かに背中をぶつけた。彼は白い歯を見せて笑い、片手を上げてみせた。私もにこやかに微笑んで、手を振り返したけれど、心の中では全身でのたうち回っていた。
死ぬなら、私じゃない。
彼が再び歩き出した。その足がふと停まった。腕を組んで水面を睨んでいたが、ふいにその腕を持ち上げてシャツを脱ぎ捨てた。私はギョッとしたが、彼はそのまま次々に身に着けたものを剥ぎ取って、あっと言う間に全裸になった。
若々しく、均整の取れた体だった。思わず吐息が漏れた。美しくて、愛しくて、憎い、私の夫。
彼は躊躇なく頭から湖に飛び込んだ。間もなく湖の中心に現れた。水面に顔を出して息を吐き、高らかな笑い声を上げてひっくり返り、手足を翼のように動かして水飛沫を上げた。
こんなに憎いのに、彼の子供のような行動を、無邪気な笑い声を可愛いと思うのだ。
こんなに憎いのに、愛している。まだまだ愛している。
誰か助けて。私達を救って。
その時、名前を呼ばれた気がした。悲鳴のようだった。
頭の中がカッと熱くなり、目の前が白い光でかすんだ。
この感覚には覚えがあった。十六、七歳の頃、度々経験した。強い怒りや恥辱を感じた時に起こった。一時期はそれこそ毎日のように起きていたけれど、その頻度は成長と共に少なくなり、今回は実に数年ぶりだった。
でも以前はこの白く熱い光は、ほんの数秒で消えて行ったのに、今回は長かった。
まるでうたた寝から目覚めたように、気がつくと湖の畔に立っていた。
ルシアンは湖の中心で、水面に顔を付けたまま、ぐるぐると同じところを回っていた。妙な動きだった。時折ヘタクソなクロールの真似事のように、両腕をゆっくり回した。
ああ、溺れているのだと、私は働きの鈍い頭で理解した。それでも、少なくともこの時までは、私は正気だった。
「ルシアン••••••!」
私は彼の名を呼び、湖に足を踏み込み、そのそのゾッとするような水の冷たさに飛び退いた。
そしてこれが、私に与えられたチャンスであることに気づいた。
水面を壊れたおもちゃの人形のように回り続ける夫をみつめて、私は昔見たねずみのことをふいに思い出した。
学生の頃、大学の友人達とシェアしていた、広いけれどオンボロの家にねずみが出るようになり、みんなで色々な駆除法を試した。一番効率的で安上がりなのは、アニメなんかでは黄色いチーズを罠にして使う、旧式なねずみ取りだった。でもよく捕れるのは良かったが、困ったのは罠のバネの部分に上手く頭が挟まらない限り、ねずみは生け捕り、または半殺しの状態で捕まってしまうことだ。生きたまま逃がしてはまた舞い戻って来るので仕方なく、私達は公平に順番に、捉えたねずみを始末した。
まずは水を入れたワインボトルで殴った。でもこの方法はボトルから手に伝わる感触が気色悪く、すぐに手頃な石を拾って来て、頭上に落とす方法に切り替えた。
一度では終わらせられず、何度も何度も石を拾っては落とし、拾っては落とした。
どうして私はこんなことを思い出したのだろう? こんな時に。
もしかしたら、私は挫けそうになる自分を、無意識に励ましていたのかも知れない。私は微動だにせず、私の夫が溺れる様を見つめ、彼が死ぬのを待った。
彼の動きは徐々に鈍くなり、やがて停まった。
私は湖に背を向け、コテージに戻った。まるで夢の中で歩いている時のように、足元がふわふわした。
すぐに電話をかけようと受話器を取り上げたけれど、すぐに気を変えてソファに座った。落ち着いて、と自分に言い聞かせた。落ち着いて電話口で喋る台詞を考えて。
私は自分の体を両腕でぎゅっと抱きしめ、テラスに続く窓を睨みつけた。今にも窓が開いて、ずぶ濡れのルシアンが笑顔で入って来るような気がした。
物凄く体が疲れていた。まるで一晩中町を歩き続けたみたいに、手足がだるかった。
その時ふと、目の端に、ふとピンクと白の柔らかな色がよぎった。
どうして今まで気づかなかったのか。正面のアームチェアの上にピンクのリボンのかかった白い箱が置かれていた。
私はふらふらと近寄って箱を持ち上げ、その意外な軽さにビクッと驚いた。私はサテンのリボンをほどいた。
新しい、淡いピンク色の小さなドレスが現れた。
襟にあしらわれた、繊細なレースが美しかった。その壊れ物のようなベビードレスの肩を、私がそっと持ち上げると、ドレスと同色の封筒が私の膝に落ちた。
私は震える指で封を開いた。同じ色のカードが出て来た。
カードを読み終わると同時に、私は床に崩れ落ちた。腹部を抱きしめて突っ伏した。喉から自分の声だとは思えないような声が溢れた。私はその獣のような声で、幾度も、幾度も彼の名を呼んだ。
私が殺した夫の名を。
私の愛する夫の名を。
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