ビューティフル・ストレンジャー

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ビューティフル・ストレンジャー

キアラがクラスメートと派手に喧嘩したなんて、正直私は信じられなかったわ。だって贔屓目じゃなくて、あの子は同じ年の子なんかと比較にならないくらい賢くて、何より如才ない子供ですもの。おまけに殴られて、黙って引き下がるなんて。一体全体どうかしちゃったのか疑うわよ。  六ペンス亭の二階に上がり、 「入るわよー」 と、声を掛けながら、こざっぱりした住まいにお邪魔した。  思った通り、リビングにキアラの姿はないわ。私は突き当たりの子供部屋のドアを叩いた。 「キアラ? ルースおばさんよー。入っても構わなくて?」 「開いているよー」  キアラはベッドに寝そべって、私が入って行っても、読んでいる本のページから目を離そうとせず、 「どうぞ、座ってね。ちょっとここまで読ませてね」 「薄暗いところで、長いこと文字を読んでいたら、目を悪くするわよ」 と、私は小言めいたことを言った。けれどただ言ってみたかっただけよ。  私は窓際のデスクに備え付けられた、小さな椅子に座って待つことにした。  私も読書の邪魔をされるのは大嫌い。面白い本なら特にね。切りのいいところまで読めないと、気持ち悪いもの。  私、この子くらいの年頃、どんなことを考えていたかしら?••••••そうね、キアラに負けない本の虫だったわ。本を閉じた後も、余韻から抜け切ることが出来なくて、一日の殆どを、私にしか見えない、愛しくて優しい存在と遊んでいたわね。  いつでも夢うつつで、足元が危なっかしい子供だった。色んな意味で。  つまり、今とそんなに変わっちゃいないと言うことなのね。  その点、キアラはしっかりしているわ。子供の頃の自分と比べても、感心するもの。  キアラはちょうど切りのいいとこまで来たらしく、ふうっ、と満足そうな息をつき、ページの間に栞を挟んで本を閉じた。その丁寧な手つきに見惚れていると、キアラはにっこりと笑いかけた。 「待っていてくれて、ありがとう」 「押し掛けて来たのは私だもの。ごめんね、邪魔をして」 「メイから頼まれたんだよね? 私のことスパイして来てって?」 「いいえ。私からスパイしてあげるって、志願して来たのよ」 と言うと、キアラは大きな目を更に見開いて、すぐに声を立てて笑い出した。 「私ね、ルースおばさん大好き! メイもおばさんみたいに、はっきりと何でも言ってくれたらいいのにって思うよ」 「でもメイはあなたの母親だもの。親として、我が子の前で口にしてはいけない禁句が、そりゃあたくさんあるのでしょうよ、きっと」  例えば、あなたの父親を殺してしまった、とか、あなたが居なければもっと自由に生きられるのに、とか、でもそんな自由なんかちっぽけにしか思えなくなる幸せを、あなたが与えてくれている、とか、もしこの幸せを奪われたらと、恐ろしくて眠れなくなる夜もあるとか、ね。 「ほら、ルースおばさんに、全部話してご覧なさいよ! 学校で何があったの?」  するとキアラは、やれやれ、と大人っぽい仕草で肩を竦めてみせた。 「今日はね、お弁当の日だったのよ。ルースおばさん、これ見て」 と、鞄からガサガサ取り出して見せたのは、竹で編んだ四角の平たいバスケットだったわ。 「まあ、素敵! これは何て言ったかしら? ああ、お弁当箱ね?」  私は思わず感嘆の声を上げていたわ。新しい品ではないけれど、それだけに良く使い込まれていて、とろりとした飴色の艶が何とも言えない、いい味を出している。 「ね、可愛いでしょう?」 「ええ、とっても良いものね。これはメイのもの?」 「うん。学生の時使っていたんだって。私もこれにサンドイッチを詰めてもらうのよ」  キアラは嬉しそうだけど、でも小学生にしては、渋い好みよねえ。 「あの子もね、最初はそう言っていたの。私の持ち物は何だって、可愛い、可愛いって、うるさいくらい羨ましがったのよ」 「それは、喧嘩した女の子のこと?」 「私は、喧嘩したつもりなんかないよ。••••••私の持ち物って、学校では少し珍しかったりしていたのね。ほら、兎の模様の巾着とか、すごく良く消える消しゴムとか、両側が開くペンケースとか」 「日本の物ってことね?」 「そう、メイから貰ったの」 「この辺りじゃなかなか手に入らないものね」  ロンドンや大きな都市ならともかく、この辺りでは外国の雑貨なんか、お目にかからないのね。まだまだ田舎ってことよ。  キアラの話しがどこに行こうとしているのか、何となく予想がついて来たわ。 「あの子はずっと、私の持ち物を羨ましがっていたの。でも段々、近寄って来なくなったと思っていたら、こっちを見てコソコソ話したり、笑ったり、わざとらしく楽しそうにするグループを作っていたの」 「まあ、嫌な感じね。どうしてそんなことするのか聞いてみた?」 「ルースおばさんだったら聞く?」  逆に聞き返されて、思わず唸ったわ。 「そうね。聞かないと思うわ」 「そのくらいだったら、私もそんなに気にしなかったのだけど」  そのくらい、って、私には充分陰湿に聞こえるのだけど。特にこれくらいの年頃の女の子には、堪え難いくらいのことじゃないのかしら? 「今度は「ガイジン」、「ガイジン」って、わざと聞こえるように言うようになったのね。ううん、それは別にいいの」 「いいわけないでしょう!」 「だって私は「ガイジン」じゃないよ。それに外国人だからって、それがどうしたの?」 と、透き通った瞳で見つめられて、私は言葉に詰まったわ。  確かにキアラの言っていることは正しいのよ。でもここでもまだ腹を立てないでいられることに、私は感心を通り越して不可解よ。私なんて、聞いているだけで爆発しそうなのに。 「彼女はね、今とても機嫌が悪いのだとは思うの」 「機嫌悪いでは済ませない、陰険さだと思うけれど。どうしてそう思ったの?」 「••••••お父さんとお母さんの仲が良くなくって、お母さんが家を出て行ってしまったって。本人から聞いたわけじゃないけど、本当のことだと思う。お母さんがお迎えに来なくなって、オペアのお姉さんになったから」 「••••••それ、本当にただのオペアでしょうね? 若い金髪のスエーデン美女じゃない?」 「どういう意味? 綺麗なおねえさんだけど、デンマーク人って言っていたよ」  キアラの清らかな瞳に見つめられて、ついうっかり汚れた大人の偏見を口にしてしまった自分が、恥ずかしくなったわ。 「とにかく、それは同情すべき環境だけど、だからって友達に嫌がらせしていい理由にはならないわよ」 「今日は私のお弁当箱を見て••••••、こんな古い物を使わなきゃいけないのは、貧乏だからって。父親が居ないからだって。そんなふうに言われたの」 「ん、まあ! それは悔しいわよ! 腹も立つわ。私だって!」  そこで私は思い出した。キアラが少し前に「うちって貧しいの?」ってメイに聞いていたわね。 「もしかして、今回が初めてではないのね?」  キアラはコクンと頷いた。 「でもそれは気にしないの。だって嘘だもん。メイは貧乏ではないって言った。それにもし本当に貧しくっても、それは恥ずかしいことじゃないって、お母さん、言ったもん!」 「そうよ、キアラ。あなたのお母さんは正しいわ。あなたが怒って当然よ!」  頬っぺたの一つや二つも叩いてやりたくなるわよ。私だって今から飛んで行って張り倒してあげたいわ!  私は興奮気味だったけれど、なぜかキアラは、 「••••••でも、それだけじゃないの」 と、口を濁して俯いた。  何か変ね? 「キアラ?」 「だって、腹が立ったんだよ。うちにお父さんが居ないのは本当だけど、それは私のせいでも、メイのせいでもないのに」  いえ、本当はメイのせいなのだけど••••••。何てことは口が裂けても言えないわよねえ。  そこで私はやっと気づいたの。叩かれたのはキアラの方なのよね? ん? 「だから言っちゃったの」 「何て言ったの?」 「私の母親は外国人で、お金持ちでもない、シングルマザーかも知れないけど、私を捨てたりしない。あなたのお母さんみたいなことは、絶対、絶対しないって」 「••••••まあ、言ってしまったわねえ」 「うん••••••。泣いちゃったわ」  自業自得とは言え、あの学校のお嬢様育ちには相当きつかったわねえ。 「それだけじゃなくって」 「え、まだ続きがあるの?」 「うん。あなたが私のこと嫌いなのは分かったけど、私はあなたに興味ないから。私に近づかないで、構わないで、話しかけないで、って言ったら、引っ叩かれた」 「あら、まあ••••••」  私はもう何て言っていいのか、さっぱり分からなかったわ。  察するに、キアラに意地悪をした女の子は、キアラのことが大好きなのでしょうね。  キアラのような、色んな意味で毛色の変わった子って、同世代の女の子達にとっては、憧れの対象か、自分達と同化しない存在として、疎ましがるかってパターンが多いのよ。もっとも当人はどう思われていても、気づいているのかいないのか、飄々としていて、それがまた憎らしいのだけど。  つまりその子、元は前者だったのが、何らかのきっかけで、百八十度転換してしまったのね。  可愛さ余って憎さ百倍というやつね。 「私、どうしたらいいのかなあ••••••?」  キアラがぼやいたわ。しゅんと萎れている様が可愛くて、私は隣に座って、柔らかな茶色の髪を撫でた。 「その子の事、本当に嫌いになったわけじゃないのでしょう? でも言い過ぎちゃったと思ったから、黙って叩かれてあげたのね」 「••••••私も、ひどいことを言ったけど、でも最初にもっと嫌なことを言ったのはあっちだよ?」 「でも、仲直りをしたいと思っているのでなくて?」 「分かんない。ルースおばさん、どう思う?」  そうねえ。ひどくぶつかりはしたけれど、多分向こうも今頃は、自分のしたことを悔いているのではないかしら?  そう考えてみると、拗れた仲の修復は、案外単純に進みそうに思えたけれど、私は敢えて口出ししない事に決めたの。 「キアラ。それはあなたのお母さんに聞いてみようか?」 「ええー?」 と、キアラは露骨に嫌な顔をしたけれど、でもここから先は、母親の領分でしょう? 「今、あなたが私に話してくれた事、そのままメイに伝えるの」 「でも、メイはおばさんみたいに、ちゃんと私の話しを聞いてくれないよ。絶対、私が悪いって叱るだけだよ!」 「そんなことないと思うけど、そしたら私がメイを叱ってあげる」 と、私は約束した。 「それにね、今頃メイは相当腹を立てているはずよ。あなたに手を上げた相手にね」 「メイが?」 「そうよ。大人しそうに見えるけど、本当は気が強いのだから。怒らせると怖いのよ!」  私は大袈裟に身震いして、キアラを笑わせた。けれどこれは本音よ。あまり見たことないけれど、メイが怒気をお腹に潜めたまま見せる笑顔には、鳥肌が立つもの。  キアラはまだ半信半疑の様子だったけれど、そこを何とか説き伏せて、階下で待つメイのところへ行かせた。私はこっそり裏口から失礼したわ。  だから二人の間で、どんな話し合いが持たれたかは知らない。  それから後も、キアラの反抗期は相変わらずだし、メイはキアラの鋭い口撃に溜め息をついているわ。  でも時々、私には分からない言語で、キアラが話しかけるところを見かけるようになったわ。言葉は分からないけれど、それは嬉しそうな顔で、メイは応えるわ。
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