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アメイジング・グレイス
キアラのことに気を取られていて、ちょっと忘れていたけれど、キアラの祖母、つまり亡くなった夫の母の件はどうするのかと思っていたら、
「••••••もう少し、考えてみます」
と、メイはまだ迷っていたわ。
あれ以来、向こうからの接触はないようだけど、だからといってこのまま知らん顔を通すつもりはないみたい。
簡単に決められることじゃないわよね。散々辛酸を舐めさせてくれた婆だけど、キアラには血の繋がった祖母だし、おまけにもうすぐ死んじゃう人の最後のおねだりだから。
まあ、私なら打っちゃっておくけれど。言わないけど。
「こんばんは」
六ペンス亭の扉を開けると、平日の夜にしてはそこそこ賑わっていたわ。
「いらっしゃい、ルース」
すぐにメイが私を見つけて声をかけてくれた。私はカウンターの端に座って、氷を入れたノイリーを頼んだ。
狭いバーの内側で、メイが新しく購入した食洗機の使い方をセシルに教えていた。
「やだ、すごい便利! 前の子は古いけどまだ使えるのにって思っていたけど、やっぱり全然違いますね」
「ね、思い切って買って良かったわよね?」
と、二人は女学生のようにはしゃいだ。
いつもと何も変わらない、六ペンス亭の夜だったわ。
入り口の扉がそっと開いた。あんまり優しく開けた為に、ベルの音が喧噪に掻き消されてしまいそうに弱々しかった。
「こんばんは」
思いがけない人物が入って来たわ。まさかこの店に現れる日が来るとは思わなくて、私はハッと息を飲んだ。
「やあ、グレイス」
常連客の一人が声をかけて、彼女は上品な微笑みで応じたわ。
グレイスはジムの奥さん。そう、今頃サリーとスペインのどこかでお楽しみ中のジムよ。
グレイスはキョロキョロと物慣れない風に周りを見回り、常連客に勧められて、ちょうど私と反対側のカウンターの端に座った。
「こんばんは。何になさいますか?」
と、接客するメイは、少し緊張していたみたい。
グレイスがこの店を訪れたのは勿論初めてよ。夫と夫の若い愛人の行きつけの店なんか、見たくもないのが当然でしょうよ。
でも女主人のメイにとって二人はお得意様で、サリーは友人でもあるわけよ。二人を当然のようにカップルとして迎えていることが、急に後ろめたくなったのね。
分かるわ。私も同じ気持ちですもの。
「あなたが、メイ?」
「はい」
「あなたのことは、よく伺っていたのだけど、会うのは初めてね。私、ジムの妻のグレイスです。ご存知でしょう? ほら、いつもサリーと一緒に来ている••••••」
サラリとサリーの名が出て来て、私の心臓が跳ね上がったわよ。勿論、メイも、それにカウンターに張り付いている常連客はみんなそうだったと思うわ。
「初めまして••••••」
メイが何と返答したらいいのか分からない顔で答えた。
「話しに聞いて想像していたより、ずっと素敵な人なのね。凄いわ。外国で、しかも女手一つで、お店を切り回すなんて、私にはとても出来ない」
「ありがとうございます。村の皆さんが助けて下さるおかげです」
「娘さんがいらっしゃるのですって? お幾つ?」
「六歳になりました」
「羨ましいわ。うちには子供がいないから••••••。可愛いでしょう?」
「ええ。手に余ることも多いですが」
どんな裏もあるようには思えない、グレイスは穏やかで綺麗な笑顔を見せた。
「白いワインを、大きいグラスで頂こうかしら」
「はい。種類は?」
「そうね。夫がいつも頼むものを」
ジムはワインなんか飲まないわ。冷えた白ワインを好むのは、サリーの方よ。そんなことメイは勿論、グレイスも承知でしょうけど。
メイは無言で頷いて、サリーがいつも注文するのとは違う種類のワインを、大振りのグラスに注いだ。
グレイスはグラスを両手で包み込み、子供みたいに、その冷たさを楽しんだ。そこでカウンターの反対側に座った私に気づいて、会釈した。私もグラスを掲げて笑みを返した。
私達は同じ学校に通っていたことがある。学年が違うせいもあって、特に仲良くなることもなかったけれど。
昔から彼女は、派手ではないけれど、美しい女性だったわ。色白で、青い瞳が鮮やかで、子供の頃は密かに、その大人っぽい落ち着いた雰囲気に憧れたわ。今は歳より老けて見えるけれど、昔から変わらないほっそりとした姿に、きちんと着たツイードのスーツが良く似合っているわ。
グレイスはハンドバッグから煙草の箱を取り出した。それはとても意外で、そぐわない感じだった。随分と細めで、フィルターのところに花の模様がプリントされているのが粋な、フランス製煙草だった。
「パリじゃ娼婦が吸う煙草って、決まっているのよ」
と、若い頃友達が気取って煙を吹かしていたこと、ふいに思い出したわ。
まるでその為にわざわざ誂えたような、白地に金で花を描いたライターを手に、グレイスは困ったようにカウンターの上を見回した。
「あの、外のテーブルに灰皿がありますから」
申し訳なさそうにメイが言った。
「ああ、禁煙法が出来たのだったわね••••••。すっかり忘れていたわ」
この国で禁煙法、つまり屋内の公共の空間での喫煙が禁止されたのは、もう何年も前のことよ。
普段は外で吸わないのかしら? それとも普段から、あまり出歩かないのかしら••••••。
「いいのよ、気にしないで」
と、あっさり煙草とライターを鞄に戻した所を見ると、ヘビースモーカーと言う訳ではないらしい。
「ルース、ちょっとこれ見てくれよ」
常連客の一人、ピートから呼び止められた。初老の紳士が小さい男の子みたいな得意げな顔で、自分の乗っている真っ赤な電動スクーターを指差した。
「あら、素敵じゃない。新調したの?」
「この前馬で大きく当てたからね。良い色だろう? 前のよりスピードも出る」
ピートは四年ほど前に、脳梗塞で倒れて、その後遺症で片腕と片足が麻痺したままなの。
「気をつけてよ。人を轢き殺さないようにね」
私は本気で眉を顰めたわ。ピートのスピード狂振りは、村じゃ有名よ。免許取り立てのティーンエイジャーみたいに、電動スクーターでさして大きくもない村を暴走して楽しんでいるのだから。
「だから目立つように、こんな派手な色にしたのじゃないか」
と、本人はこれっぽちも気に掛けていないのよ。美味しそうにウィスキーを舐めているけれど、これって飲酒運転に当たらないの?
ピートとの会話に気を取られて、ふと見るともうグレイスの姿はなかった。いつの間にか帰ってしまったみたい。
空っぽのストールに、どうしてかしらね、胸がチリチリ痛んだわ。これはそう、意地悪をしてしまったような気持ちに似ている。
ああ、そうね。彼女の夫とその愛人をカップルとして受け入れる私達は、例え悪意がなくても、彼女を仲間はずれにしているのと、同じことですものね。
「ねえ、ルース」
グレイスのグラスを片付けたメイが、思い詰めたような表情で、私の名をを呼んだ。
「どうかしたの?」
「これ、忘れ物。多分、さっきのグレイスの物だと思いますけど」
と、花模様のライターと煙草の箱を見せた。
「ああ、手に持っているのを見たわ」
「彼女が座っていたストールにあったのです。何でこんな場所に忘れて行ったんだろう? 何か、嫌な予感がします」
「え、どういうこと?」
「分からないけれど、気になります。私、追いかけて届けて来ます」
「僕が行きましょうか? 彼女の家なら知っているし」
セシルが気軽に口を挟んだ。
「一緒に来てくれる? 連れて行って!」
「ええー? それは構いませんけど、どうしたんですか? それに僕達二人共居なくなったら、店はどうするの?」
「ルース、悪いですけどしばらく店番していて下さい。さ、セシル、行きましょう!」
メイは日頃に似合わず性急で、私が勢いに押されて頷いた時には、もうエプロンを脱ぎ捨てて店の入り口に立っていた。
「一体、どうしたって言うんですか!」
「いいから、急いで!」
戸惑うセシルを半ば引きずるようにして、店を飛び出したメイを、残された私や客達はポカーンとマヌケみたいに見送ったのよ。
そのまま二人が戻らないまま、閉店時間を迎えた。それから間もなく、メイから電話があった。イプスウィッチの病院から掛けていた。うちの村には小さな診療所しかないから、重大な怪我とか深刻な病気となると、そちらに搬送されるの。
グレイスは自ら命を絶とうとしたの。
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