高級オーガニックミルク

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高級オーガニックミルク

君にはきっと長い髪が似合うと思うよ」  始まりはそんな他愛ないリクエストだった。決しておかしな要望じゃないでしょう? 寧ろ、可愛い部類に入るくらい。 「その頃、私は男の子みたいな短い髪をしていたから。それで伸ばし始めたのですけれど。••••••気がついたら彼は私の化粧までしてくれるようになっていました」 「は?」  ちょっと待って頂戴。今何か、大幅にスキップしなかった? 「髪を伸ばして欲しい、からどうしていきなりそんなことになるの? お化粧? 口紅を塗ったり、ファンデーションを叩いたり?」 「毎日じゃありませんけど」  メイは笑いながら言ったわ。笑い事に聞こえなかったけれど。 「本当に、気がついたらといった感じでした。あの人は手先が器用で、ちょっとした写真や雑誌なんか見ただけで、上手に真似することが出来て。二人で外出する時は、私を飾りたがりました」 「着る服から、身につける香水まで?」 「はい。そのままでは人前に出せない、野暮ったい妻でしたからね。でも逆に、二人きりのときは、逆に白粉や香水の匂いを嫌がる人でした」  そしてメイは急に声を立てて笑った。 「あの頃、一本が六ポンドもするオーガニックミルクを、わざわざ取り寄せて飲んでいたんですよ。それも日常的に!」 と、値段に力を込めて言ったわ。  確かに高いわねえ。スーパーならオーガニック牛乳でも、一パイントで二ポンドもしないでしょ。普通のミルクならその半額だわ。 「日常的って、紅茶に入れたり、シリアルにかけたり?」 「そう。でも良く考えたら私、牛乳ってあんまり好きじゃないのに」 「それも彼の意向?」 「私の全てが彼の意向でした」  牛乳はともかく、ルシアンが贅沢好きであったことは確かだった。身につける物も、口にする物も、側に置く物も、一流の物を好んだ。  勿論、側に置く女も、ね。  そして随分と気前の良い男でもあった。いいえ、自分の「所有物」を飾り立てるのは、気前がいいこととは違うかもね。  とにかく、高価な服だの宝石だの、身につける物を贈ることが大好きで、それまで地味な趣味しか持っていなかった妻は戸惑った。でも自分を喜ばせたい一心でのプレゼント攻撃を、咎める気持ちにはなれなかったの。それに見合うだけの収入を得ていた夫には、特にね。  そういった訳で、気がついたらワードローブには、夫に選ばれた品だけが並ぶようになった。結婚前に自分で購入した物は、やはり見劣りがしたから、少しずつ処分した。 「友達はみんな、結婚してから綺麗になったと言ってくれましたよ。そうでしょうね。以前は髪も短くて、お化粧なんか最低限だったし、体重も五キロは重かった」 「ダイエットまでさせられたの!」 と、私は驚いたけれど、考えたらありそうなことだわ。 「いいえ、さすがにそこまでは。特別なことはしなかったのですけど、いつの間にか痩せてしまって」  ラッキーでしたね、とメイは笑うけれど、それは気づいていないだけで、ストレスが原因で痩せたのではないの? 「まあ直に、そんな嬉しいことを言ってくれる人も居なくなってしまった訳ですが」 「どういうこと?」 「••••••別に、彼に外出を禁じられたわけではなかったのですけど。でも、ルシアンは、私の行くところは必ず一緒に行きたい人でした。例えば日用品の買い物でも、彼が仕事で居ない間に済ませてしまうと寂しがって。今度は一緒に行きましょうね、ってことになります」 「鬱陶しい男ね!」  出来るだけ口を差し挟まないようにしたかったのだけれど、つい口から出てしまったわ。 「私はそんな彼が可愛いと思っていたのですが••••••。まあ、そんな生活をしていると、自然友達とも疎遠になってしまいまして。それどころか近所にコーヒー一杯、一人で飲みに出るのも窮屈になりました」 「行けばいいでしょう、コーヒーくらい?」 「でも、いつ彼から電話がかかって来るか分からないから」 「は?」 「出ないと心配するでしょう? あ、でもそれで、コーヒーメーカーを買ってくれました。バリスタが使うような本格的な。カプチーノもフラットホワイトも、何だって出来てしまうんですよ」  そう言えば、メイは紅茶もコーヒーも上手に淹れるわ。そんな過去があったおかげと言う訳ね。 「コーヒー好きな妻を気遣ってくれる、優しい夫だったのね。しかしそんな生活じゃあ、食材一つ買うのも不便だったでしょうに」 「ネットで注文して届けてもらっていましたよ」 「高級オーガニックミルクもね」 「はい。高級オーガニックミルクも」  便利と言うのも考えものねえ。家から一歩も出ずして、不自由なく日常生活が送れるのですもの。  こんなに簡単に、人一人軟禁出来てしまうのですもの。  そうやって彼は、彼女に苦痛一つ与えることなく、彼女の周囲に堅牢な城壁を築くと同時に、微笑みながら衣服を剥ぎ取り丸裸にしてしまった。  それでも良かった。幸せだった。琥珀の中の虫のように、目を閉じ、耳を塞ぎ、体を丸めて、甘やかな世界で微睡んでいたかった。 「••••••何があなたを変えたの? どうして、その幸せな閉じられた世界から出ようと思ったの?」  私の質問に、メイは無言でちらりと視線を天井へ向けた。今頃、暖かな寝床で丸まって眠っているだろう、キアラの方にね。 「ああ、そう言うことね」  私は瞬時に悟ったわ。 「そう言うことです。子供が出来たことを知って、私はようやく目を覚ましました」
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