愛する価値なんか、ないわ

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愛する価値なんか、ないわ

「妊娠したことを知って、私が最初に考えたのは離婚することでした」  メイはそう言ったわ。 「子供が出来たら、彼が変わってくれるとは、期待しなかったの?」  夫婦の間が上手く行っていないのに、赤ちゃんが産まれたら全て良くなるとか、DV男が改心してくれるとか、信じて子供を産む女性は意外と多いようね。でも結局、事態が好転するどころか、子供という重たい足枷まで抱え込んで、にっちもさっちも行かなくなってしまうケースもね、よく聞くわ。  子供のいない未亡人の私が、そんな女性を愚かだと言うのも哀れむのも、傲慢でしかないでしょうけれど、やっぱり思わずにはいられないわ。  だってそんなの当たり前じゃなくって?  子供は魔法の杖でも免罪符でもないわよ。大体ね、幾ら可愛いからって、家族の一員だからって、夫婦仲の修復を第三者に頼ろうなんて、厚かましいじゃない? 「もしかしたらって、ちらっと思ったことはありましたよ」 とメイは思い出して苦笑いした。 「でもルシアンにとっては、束縛イコール愛情だったから。子供にもたっぷり愛情を注いでくれたでしょうよ。多分、私に対する以上に」 「それが間違っているとは、思いもしなかったのね」 「でしょうね。でも私も、それが私一人のことだったら、構わなかった。寧ろ好んで愛されていたんですよ」 「重症ね」 「私もそう思います」 と真面目な顔で同意した。私達は顔を見合わせて笑ってしまったわ。 「産まれる子供は、こんな異常な生活の中で育てる訳にはいかないと気づいて、離婚を決めた訳です。でも無職では子供を育てることも出来ないから、まず職探しから始めました」 「お金持ちなのだから、彼からたっぷり養育費を貰う方法もあったわよ」 と、私は茶化した。 「それも考えなかったわけじゃないですけど、多額の養育費と引き換えに、とんでもない要求を突きつけて来そうで。彼のことだから」  ああ、ありそうなことだわ、と私は頷いた。おかしいわね。一度も会ったことのない他人、しかももう亡くなっている人なのに、まるで腐れ縁の知人のように感じるわ。 「結婚前に勤めていた会社の上司や同僚に、こっそり連絡を取り始めたのが、あっさりバレてしまいました」 「あらあら••••••。それでどうなったの?」 「••••••あの人は私を軟禁したり、行動を制限したりしても、どんな時も紳士でした」 「紳士はレディを軟禁したりしないと思うけど••••••」  私の皮肉にメイは気づかなかったみたい。と言うか、今でも死んだ夫はジェントルマンだったと、本気で信じているのね。 「それまでは、私に手を上げるどころか、声を荒げたことさえなかったんですよ。本当に」 「彼はあなたを殴ったの?」 「••••••でも、殴ったと言うか、勢い余ってしまっての事故といったくらいで。大して痛くもなかったし、怖くもなかったし。たった一度だけのことでしたから」  だからそれは暴力ではないと?  たった一回だから許されると?  冗談じゃないわよ。  どうしてそんなに男を甘やかすの? 一度でも百度目でも同じこと。男が女に手を上げたら終わりなのよ。 「でもね••••••!」 と憤った私の口を、静かな声でメイが塞いだ。 「私が怖かったのは、その行為に、彼が悦びを感じてしまったことが分かったから」 「••••••目覚めてしまったのねえ」  ベッドルームでの鞭打ちごっこくらいでは、満足出来ない衝動に。  己以外の肉体を、そして恐らく心をも傷つける行為が、ゾクゾクするほど楽しい。やればやるほどその快楽が深くなることが予想出来る。  救いようもない変態野郎ね。 「私が彼から逃げようとしたとは、彼は気づいていなかったのは、幸いでした。ただ、私が外に出たくて仕事を探し始めた、と思っていたから」 「気づかれていたらと思うと、ゾッとするわね」 「そうですね。殺されていたのは、私の方だったかも」 と、返答に困ることを言われてしまったわ。私は意図的に少し話しを変えた。 「彼の死は、事故として認められたのよね?」 「ええ。事件にさえなっていません。疑われもしなかった。私達は誰からも仲睦まじい夫婦だと思われていました。お腹に子供も居る妻が、夫を殺す理由なんかどこにもなかったから」 「でも、ルシアンの母親は違ったのね」 「••••••セイリーンはただ、彼女の息子の死の責任を、誰かに取らせたかったのだと思います。それには私が一番彼に近かった人間だから。私がもっとちゃんとしていれば、気をつけていれば、何らかの手を打てば、彼は死ななくて済んだ。そう信じている」 「相当、責められたのね?」 「ええ。昼夜問わず電話を掛けて来たり、押し掛けて来ては何時間も叱りつけたり。少し、精神的におかしくなっていたのでしょう。無理もないことだったと思います。それに••••••」  メイは口を濁した。 「それに、何?」 「それに、母親の勘が働いていたのかも、って」 「どういう意味?」 「誰も私のしたことを疑わなかった。でも彼女だけは、母親の勘で本当のところを嗅ぎ取っていたのかも••••••。そう思ってゾッとしました。罪悪感から、どんなに彼女に責められても黙って受け止めていたのだけど。私が妊娠していることを知っても、彼女はちっとも変わらなくて。それどころか、激しさを増して来たような気がして。怖かった」 「お腹の赤ちゃんに、危害を加えられるかもって、思ったのね」 「••••••考え過ぎだったのかも知れません。幾ら私が憎くても、ルシアンの子供でもあるのに。妊娠中で過敏になっていたせいもあるでしょう。でも、私にも母親の勘が働いたのかもしれない。だから、もう何も考えずに逃げ出した」 「それで、あなたは国に帰った。でもあなたは国を出て何年も経っていたのよね。誰か頼れる身内か友人はいたの?」 「いえ、そんなことも何も考えず、ただただ逃げ出したい一心で、飛行機に乗ってしまったので。でも帰ってすぐ、私を捜していた人達が居ることを知りました。父の奥さんだった人と、彼女の娘さんです」 「娘さんって、あなたの妹ってこと?」  私はそうであったらいいと思いながら聞き返した。そりゃ、血が繋がっているからって、簡単に仲良くなれる訳でも、姉妹になれるわけではないのは分かっているわよ。  でもね、この世に一人くらい、自分と同じ血を分けた人がどこかに居るって、それは素敵なことに思えるの。  私にも、もしそんな人が居たらいいと思うから。別に会わなくてもいい、ただ存在しているだけで嬉しいだろう。  多分、メイも同じこと考えたのね。少し残念そうな顔で首を振った。 「いいえ。父とは子供の頃から暮らしていたそうですが、彼女は奥さんの連れ子なので」 「あなたを捜していたのは、お父さんの奥さんとその子供で、お父さんではなかったの?」 「••••••父が亡くなったので、私を捜していたのですよ」
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