女王陛下の名にかけて

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女王陛下の名にかけて

父が亡くなったのは、私が帰国する直前でした。もう少し早かったら、死ぬ前に会えたのにと嘆かれましたけれど、そんな運命と言うか、星の巡り合わせなのでしょうね」 とメイは言ったわ。 「父は自分で事業を興して、それがわりと成功していたようです。少なくとも、捨てた娘におこぼれを分け与えてくれるくらいには」  メイは少し辛辣とも言える口調で言ったけれど、次の瞬間ふっとその表情が和らいだ。 「私がまだキアラより幼い頃に出て行ったきりで、顔もろくに思い出せない。母が亡くなって困っている時すら来てくれなかった。恨んだこともありました。唾を吐きかけてやりたいくらい、憎かった。死んでから、助けてもらえるなんて、思わなかった••••••!」  そうね。その薄情な男が残してくれたお金があったから、メイは六ペンス亭を買い取り、素人の手で危なっかしく経営しながら、キアラと二人、楽に生活することが出来たのは、事実だわ。  そして更に掘り起こせば、メイが成人するまで、父親は一度も途切れる事無く養育費を振り込んでくれていた記録を、メイは母親の死後に見つけていた。  どうしてそのことを、母親は一度も話さなかったのか、疑問は残るけれど、まあ母親にも母親なりの葛藤があったのでしょうね。今となっては想像するしか出来ないわ。  まあね、養育費なんてのは、親として当然の責任であって、払ったからって、褒めることではないわよ。  でもね、親として最低限の責務は果たしてくれていたわけよ。お金を出すことが、愛情の証なんて思わないけれど、でもそこにひとかけらの情もなかったなんて、思いたくないわ。  無我夢中で帰国して、成り行きでそのまま日本で出産することになったメイを助けてくれたのは、父の妻だった人とその娘だった。 「当たり前だけど、子供って一人じゃ産めないんですよ。でもそんな当たり前のことも、産むまでは分かりませんでした」 とメイは言った。 「今でもその人達とは連絡を取っていて?」 「ええ。殆どはクリスマスのカードとかですけど。時々はキアラの写真をメールしたりもしています」 「良くしてもらったのね」  過去のこととは言え、天涯孤独だったメイにも、頼れる人が居てくれたことに、私は安堵する。感謝せずには居られない。 「ええ、とても」 「そのまま日本に残って暮らそうとは、思わなかったの?」  私も、若い時に飛び出した故郷に戻って来たのは、夫を亡くしたから。最愛の人と共に、未来の夢も希望も失った傷が癒えることはないのを知っていたけれど、幼い頃から見ていた、高い空や平坦な大地、灰色の海に慰めてもらう為に。 「考えましたよ。そう勧められもしました。けどルシアンと住んでいた家も、放ったらかしたままだったし、彼のお墓だってこっちにあるし、それに」 「それに?」 「どんなに親切にしてもらっても、どうしても、そこが私の居場所だとは思えなかった」  そうね。私とメイは違うわね。  それに、メイには小さなキアラが居たから。小さくても、未来や夢や不安や希望なんかが、ごちゃごちゃにギッチリ詰まった、パンドラの箱が。  再びイギリスに帰って来たメイは、最初は夫と住んでいたロンドンの家に戻ったが、いつセイリーンに嗅ぎ付けられるかと不安もあり、すぐ売りに出した。 「そう言えば、言ったことありましたっけ? 私、学生の頃スラウデンに来たことがあるんですよ」 「いいえ。初耳よ」 「友達何人かと旅行していた時に、ちょうど音楽祭もやっていた頃だったので寄ったんですよ」 「へえ。その時もマーテロー•ホテルに泊まったの?」  私はメイと初めて会った時を思い返しながら尋ねた。 「まさか! 旅費が足りなくて、ヒッチハイクしていたくらいなのに。でも、マーテローを見て、いつかこんな高級ホテルにのんびり滞在してやろうねって、友達と話しました」 と、メイはくすぐったそうに笑った。 「子供っぽいでしょう? でもあの時の気持ちを思い出したら、ワクワクした。ちょうどシーズンオフだったし、ロンドンの家も売れて、気が大きくなっていたのもあるんでしょうね」 「あの時、マーテローに居たのはそういう訳だったのね」 「あと、ルシアンが私につけた贅沢癖が抜けていなかったのもあるかも」 「そこで六ペンス亭が売りに出ているのを知ったのね。まあ! これは運命としか言えないわね」  私のいつもの職業病、ロマンチック癖が頭を出して来たけれど、案外メイは冷静に、 「確かに、条件に叶ってはいたのですよ。子供を育てながら、何か商いの真似事をしたいと考えていたのもありましたし。それにあの時の私は、結構焦っていたんですよ? キアラの学齢までに何とか定住の地と仕事が欲しくって。あの時ここを買ったのは、半分は賭けで、半分は勢いでしたから」 「ええー! あの時、そんなこと考えていたの? まあ、驚いたわね」  三年前、初めて六ペンス亭に現れたメイは、風で倒れる野中の花のようだったわ。あの頃と比べると、随分と血色も良くなったじゃない? 「賭けだったけれど、私は勝ったと思っていますよ。超大穴だったのかも知れませんけれど」 「そうね。才能があるのかもね」 「もう一回、賭けてみようかな••••••」 と、小さく呟いた言葉を私は聞き逃さなかったわ。 「何を賭けるつもりなの?」 「ちょうどここに、一ポンドコインがありますね」  メイは笑って、誰かが忘れて行った金色の硬貨を摘まみ上げた。 「これを投げて、女王陛下のお顔が出たら、ロンドンの義母に会いに行きます。勿論、キアラも連れて」
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