あと、五分

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あと、五分

私達が滞在したコテージの裏手に、湖がありました」  この時はどんな状況だったかは忘れたけれど、昼間の六ペンス亭に私とメイと二人だけだった。そして私達には珍しく、お酒でなくてコーヒーを飲んでいた。 「ルシアンは、その湖で死にました」  メイが夫の死の様子を語ってくれたのは、後にも先にもこの時だけだった。 「一緒に泳ごうって、誘われました。でも私は断った。彼には秘密にしていたけれど妊娠していたから」 「だから彼は一人で泳ぎに行ったのね」 「私は止めたんです。夏でも気温は低かったし、それにお昼に少しだけどワインも飲んでいたから。彼もその時は気を変えてくれたのに。でも散歩に行くって言って、そのまま湖に飛び込んだ••••••」 「それって••••••、自殺ということはないの?」  私は期待を込めて聞いたわ。まあ、それは有り得ないとは思いましたけどね。人を殺したって、自分を殺すような男じゃないでしょうよ。でも自殺だったら、幾らかはメイの気が楽になるのではないかと思ったの。けれどすぐに気づいたわ。それならそれでメイはまた、自分がもっと気を配っていれば、とか、私がしっかりしていれば、とかぐちゃぐちゃ悩むのだから、大して変わらないわね。 「いいえ。それは違います。私、見ていたから」 と、メイはきっぱり首を振った。 「見ていた?」 「ええ。キッチンの窓から」  散歩に出掛ける夫の後ろ姿を、メイはキッチンで片付けものをしながら見送った。その視線に気づいて彼は、手を振って笑いかけた••••••。  とても幸せな若夫婦の姿だわ。  彼は湖の畔で立ち止まり、いきなり服を脱ぎ出してメイを驚かせた。そのまま綺麗なフォームで水に飛び込んだ。 「子供みたいにはしゃいで、笑っていて••••••。何がそんなに楽しかったのでしょうね?」 と、私に問いかけられても分からないけれど、でもまあ、楽しくて仕方なかったのでなくて? ルシアンという男は、多少どころか、相当歪んじゃいたけどメイを愛していたのだもの。そんなに好きで好きでしょうがない恋女房を一人占めにして、支配して、束縛して、愛されて。一緒に旅行にまで行けて。それは楽しいでしょうよ。  「人が溺れるときって、まるでふざけているみたいなんですね。最初は、私をからかっているのだと思った。でも、段々、様子がおかしいことに気づいて••••••。湖に走って行ったときにはもう、彼の手が水面でもがいているだけでした」  メイは淡々と語ったわ。私はコーヒーを飲むことも忘れていた。無表情で、お面のような顔で語る様子は、何だか舞台で一人芝居を観ているような気持ちになったわ。 「私は、夢中で水に入って、でも水が胸の辺りまで来て、ハッとしました。凄く冷たかった。ゾッとした。慌ててお腹を抱いて岸に上がって、コテージに戻って、電話を、しようとしたんです。消防署とか、警察とか、救急車とか、そんなところに。でも、手が動かなくなってしまいました」 「それから?」  私はかすれがちな声を励ますように促した。 「後ろを振り返って、湖を見たら、もう彼の姿は見えなかった。••••••どれくらいの時間が経ったかはわかりません。多分、そんな長い時間ではなかったはずです。我に返って、あと五分待とう、と思いました」 「五分って、何を待とうと思ったの?」 「助けを呼ぶのを」 「どうして?」 と私は問うたけれど、答えは聞く前に分かっていたわ。 「彼が確実に死んでくれるように、です」  怖かった、とメイは言った。 「彼が戻って来そうだった。冗談だよ。溺れた振りをして脅かしただけだよ。試しただけだよって、肩を叩かれる気がしました。それは正直、彼が死ぬことより恐ろしかった」  多分、メイはこの時の気持ちを引きずったままなのだと思うわ。死んだはずの夫が今でも追いかけて来るような気がして、後ろを振り返るのが怖いの。 「よくも僕を殺してくれたな」 ってね。  でもねえ、正直、第三者の私に言わせれば、これって「殺した」って言える程のことかしらって思うのよね。そりゃね、メイが罪悪感でいっぱいになる気持ちはわかるわよ? けど、いい歳した大人が酒を飲んで、冷たい湖で泳いで溺れたなんて、自業自得というか。自己責任の範疇よねえ。  フランスだかどこかの国じゃ、溺れている人を助けないのは罪に問われるらしいけれどね。あら、もしかしてメイの国でもそうなのかしら? でもここは英国よ。か弱い女性が、しかも妊婦が、溺れる成人男性を助けられるわけないじゃない。五分や十分レスキューを呼ぶのが早かろうが遅かろうが、結果はおなじでしょうよ。  それにね、大きな声じゃいけないけれど、女を殴るDV夫(の一歩手前だったかしら?)なんか、殺されて当然でなくて?  この世界には悲しいことに、妻を殴る夫や、子供を虐待する親、自分より弱いものを痛めつける、人間だとは思えない輩が大勢いるわ。  でもね、そんな奴らは知らなくてはいけないわ。  殴ったら殴り返されるのよ。傷つけたら傷つけられるのよ。浮気したら浮気されるのよ。盗ったら盗られるの。  その拳は、殺される覚悟で振るうといいわ。  世界はそんなふうに回っているのだと、少なくとも私は信じているわ。
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