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赤ワインを満たして
「今日は観覧車に乗ってね、それから水族館に行くの。明日は自然史博物館で、お昼にラーメン食べるんだ! 良いでしょう?」
キアラは大きな青い目をキラキラさせて捲し立てたわ。
「それでね、それでね、博物館の後ろに、サイエンス•ミュージアムがあるから、急いで歩けば両方行けると思うの。どう思う、ルースおばさん?」
「そうねえ。キアラが行きたい所、全部行って来たらいいと思うわ」
「そうだよね? あ、あとね、ピカデリーサーカスに、大きな本屋さんがあるんだって。五階建てで、カフェがたくさんあって、買っていない本も持って行って読んでいいって。凄くない? 私、そこも行きたい。行ったらルースおばさんの本も捜して来るから」
「キアラったら。そんなに色んなところに行けないわよ。たった一泊するだけなんだから」
メイは呆れたように口を挟んだ。
「今日は大体、病院に行くのがメインで、観覧車か水族館はどっちかって言ったじゃない」
「ええー! でも観覧車なんか、三十分で一周回るんだよ。水族館はすぐ隣だから大丈夫だってば」
「観覧車は乗るのにもチケット買うにも並ぶの!」
「じゃあメイ、ケータイ貸して。今からウェブでチケット予約するから。ファストパスもあるって」
「だから、お見舞いに行くのよ。ロンドンに観光しに行く訳じゃないの。分かっている?」
私はニヤニヤ笑いながら、二人のやり取りを見物した。この調子だとロンドンアイどころか、ハリーポッター•スタジオツアーのチケットまで買わされそうだわね。
土曜日の朝の六ペンス亭で、よそ行きの服でおめかしした、メイとキアラは車を待っていた。今から最寄り駅まで車で行って、そこからロンドン行きの列車に乗る。
私? 私はただのお見送りよ。
ロンドンの病院に居るメイの(元)義母、つまりキアラの祖母に会いに行くと決心した、メイの応援に来たのよ。本当は朝早いのは、苦手なんですけれどね。昨夜も出発祝いだ、景気付けだと、遅くまで飲んでいたことだし。でもメイだって条件は同じなのに、朝の光の中でパリッとしているわねえ。狡いわ。そこはやっぱり、若さかしら。
コインに賭けてみようかと言ったあの時、でもメイは硬貨を投げなかった。ううん、投げる素振りをして、止めたの。
「••••••こんなものに頼っちゃいけませんよね」
そしてコインの表を上にして置いた。
「やっぱり、決めた。キアラを連れてロンドンに行ってきます」
「あら、どうしたの? 唐突ね」
「ずっと迷っていました。個人的には会いたくないけど、キアラには実の祖母で、おまけにもう長くはない人で。会っても会わなくても後悔する気がするんですよ。だったら会って来ます」
「大丈夫なの?」
「大丈夫。ヤバそうだと思ったら、キアラを小脇に抱えて逃げて来ますから」
と力強くメイは言ったけれど、私はまだ不安で、つい「私も一緒に行きましょうか」って言いかけた。でもそれはさすがに出しゃばり過ぎよね。
メイがどのようにして、自分の中の色んなものに折り合いをつけて、決心したのかは分からないわ。
分かるのは、心を決めたメイの目前から、迷いの雲が消えて、晴れ晴れとした顔をしていると言うことだけ。
「••••••春休みになったら、ちょっと日本に帰ってみようかな」
メイは独り言のように呟いた。
この場合の春休みって言うのは、キアラの学校休みのことね。つまりキアラを連れて何年ぶりかに一時帰国してみようと言うことね?
「あら、いいわねえ。春なら桜も咲いているのでしょう? 羨ましいわ。私も行きたいわあ」
「一緒に行きませんか?」
冗談っぽくメイは誘ったけれど、本気なのはその目の色で分かった。
「そうねえ。考えておくわ」
と、その場は気取って保留にしたけれど、内心悪くないわって、ワクワクしたわ。
その昔、夫と約束していた国。約束を果たす前に、夫は一人でもっと遠いところに旅立ってしまったけれど。その代理が、親友と孫みたいな女の子なら、悪くないどころか上等だわよ。
「日本には、キアラの顔を見せて上げなくてはいけない人達もいるのでしょう? いいじゃない。きっと喜ぶわ」
私は励ますように言った。
「もうタクシーを呼んだほうが良いのじゃなくて? そろそろ出ないと列車の時間よ」
私はどこに行く•行かないで、まだ争っている親子を促した。
するとキアラがこっちに振り返って、ニマーっとチェシャ猫みたいに笑った。
「えっ、何?」
「タクシーは呼ばなくて、大丈夫」
「じゃあ、どうやって駅まで行く気?」
「カーターが送ってくれるって。勿論、明日も駅までお迎えに来てくれるそうよ」
と、すごく得意そうにキアラは言った。私も釣られてニヤニヤしてしまうわ。
「あらあ、そうだったの。余計な心配だったわねえ」
「そういうのじゃないですよ。この間ロンドンに行く話しをキアラとしていたら、彼が店に居て、たまたま聞いていて。私は断ったんですけど」
まるで非難でもされたように、メイはしどろもどろ言い訳を始めた。
おかしな子ねえ。誰も責めちゃいないのに。寧ろ、皆応援しているのにね。
そこにカラン、カランと扉のベルが気持ち良く鳴って、カーターの大きな体がぬっと入って来た。
「お待たせ! 準備はいいかな? そろそろ行こうか?」
と声を弾ませた。分かりやすいわねえ、相変わらず。
「あ、ルースおばさん。おはよう!」
「おはよう、カーター。今日は安全運転でお願いね」
余計な口出しかしら。でもこの浮かれっぷりじゃ、車で空を飛びかねないのですもの。
「はい、勿論! あ、メイ、俺が運ぶよ!」
「いいわよ。自分で持ちますから」
「いいから、いいから。俺に任せて!」
と、カーターはメイの小さな鞄を強引に奪い取って車に積み込む。
「カーター、私の鞄は?」
「ハイハイ、お姫様。今すぐに」
と、キアラに顎で使われてもニコニコしているのだから、困ったわねえ。
私はキアラにそっと耳打ちした。
「ロンドンに行く話、わざとカーターに聞かせたでしょう?」
「何言っているの、ルースおばさん。勿論よ」
と、キアラは更に重たいリュックサックをカーターに押し付けに行ったわ。
「あ、メイ。忘れ物よ」
私はカウンターに置かれた白のストールを手に取った。
「ありがとうございます」
「何かあったら、電話して頂戴ね? 何時でもいいわ」
押し付けがましいかしら? またジョルジオ•パルマーに「母親面」してって言われるかしら?
でもいいわ。何て言われたって。
「はい。••••••義母はきっと、びっくりしたでしょうね」
「なあに、いきなり? 何年も逃げ回っていたあなたが会いに来るって聞いて? しかも孫娘まで連れて来てくれるって」
「それもありますけど••••••。ルシアンが死んだ湖から、五キロと離れていない村で、今私とキアラが生活していると聞いて」
私は羽毛みたいに軽いストールを、ふわりとメイの首に掛けた。
「ええ。驚いたでしょうね。どうしてって、何度も問いかけたと思うわ」
「答えは出たと思いますか?」
「さあ••••••。どうかしら?」
なぜメイがスラウデンで暮らすことを選んだか。
なぜキアラを産んで育てているのか。
なぜ今更、ルシアンの母に会おうとしているのか。
冷静になって考えてみれば、すぐ分かることよ。
「夜、ホテルから電話しますね」
と、メイはにっこり笑ったわ。
「聞いてもらいたいことだらけだと思うから」
「ええ。待っているわ」
赤ワインを並々と満たしたグラスを片手にね。
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