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出番
梅雨明けの風はどこか生ぬるくて、身体がだるく感じる。
累くんへの気まずさを紛らわすために、働きすぎてるだろうか。
けど今日はたしか会議だったはずだとホワイトボードで予定を確認するとやっぱりそうだった。
会議室の清掃をしていると、開けたままにしていたドアがぱたりと閉まって振り返るとそこに山岡部長がいた。
「部長?」
何も言わずに微笑むその顔が不快で、不安で。
アルコールスプレーを握る手に力がこもってしまう。
「あの、何かご用でしょうか」
「いいんだ。続けてて」
そう言いながらも何をするでもなく会議室の端から部長の視線を感じる。それを振り払うように急いで清掃を済ませた。
「終わったので出ますけど」
できるだけ無愛想にそう言うと、部長はにこやかに「うん、お疲れ様」と言ってきたので横を通り過ぎようとしたら、ぬるりと撫でるように部長の手が肩に乗った。
「し、失礼します!」
そう言って手を振り払うように会議室から走り去る。振り返り追って来ていないことに安心して数歩後ろ歩きをすると、誰かにぶつかってパンが落ちた。
「って」
「あ、すみません!」
あれ、このクリームパンは……。
そう思いながら顔を上げると不機嫌そうな秋山先輩の顔があった。
「タックルかよ……」
「す、すみません」
前かがみになると、先輩はクリームが少し垂れたパンを拾う。
「3秒経ってねえよな」
「さあ……?」
なぜそのようなことを聞くのか分からず首をかしげると、先輩は満足げにクリームパンを咥えた。
「うわ、それは無しだと思いますよ」
「3秒ルールだろ。……んな顔すんなよ……」
「別に変な顔してるつもりないです」
「すげえゴミを見るみてえな顔してるぞ……」
「すみません」
「まあいいわ……ちょっと資料集め行ってくる」
「あ、はい……」
エレベーターに向かった先輩を見送っていたら、ドアが閉まる前に私に笑顔で手を振ってくれた。私も小さく振り返し、先輩の細長くなる姿を見送った。
「秋山くんは良い社員だなあ。ね。神木ちゃん」
部長が追いついてきて、耳元で囁くように良い社員だと繰り返し強調した。
「そう、ですね」
満足げな顔でオフィスに戻る部長の後に続いて、オフィスに入ろうとすると益見さんがぶつかってきた。
「ご機嫌取りも大変だねー私には無理だわー」
含み笑いの彼女には「お疲れ様」とだけ返し、会議用のお茶の準備を始める。
ご機嫌取りね。
別にどう思われたっていいし。
関係ないもん。
平気平気。
えっと、冷房対策にあったかいお茶と……白湯もいるかな。あとは麦茶でなんとかなるか。
「神木さん、お茶は後でいいかも! 資料を席に置きにいかない?」
「あ、田辺さん。そうだね……あ。でも秋山先輩が資料集めしてくるって言って出てったけど……」
田辺さんはミノキ水に入って最近話すようになった同期で、えくぼが可愛い女性だ。
「え、うそ?!」
笑顔を崩し驚く彼女に、苦笑いで「多分すぐ戻るんじゃないかな」と返すと、「大丈夫かな~」と頭を掻いた。
会議開始15分前になると、秋山先輩がやっと帰ってくる。
「だ、大丈夫ですか?!」
汗だくで息を切らせた先輩に驚きを隠せない。
「エレベーター! 混みすぎて……! 階段で来たわ!」
スーツのジャケットを小脇に抱えている先輩は半そでの下着が透けてしまっている。
赤すぎる顔に、とりあえず近場の席に座らせて給湯室に走った。
「麦茶と……タオル、あ! 保冷材もいるか!」
3点セットをおぼんに乗せて急いで戻ると、クリアファイルで風を作る秋山先輩に、益見さんがマグカップを渡しているのが見えた。
「お疲れ様です~! 先輩毎日大変そ~、コーヒーどーぞ!」
「お、おー……そこ置いといて」
「はあい」
暑がってる人によくあんなべたべたできるなとある意味で尊敬してしまう。
語尾を上げて離れた益見さんはモデル歩きをしながら自分のデスクに戻っていく。その姿はどこか滑稽だった。近づいてみると湯気が立っている。まさかのホット。
「あー……あの、会議進行ですよね?」
「そーなんだよな。やべえ」
「とりあえず汗拭いてください。着替えありますか?」
「おー! さんきゅ。助かるわ。着替えはねえ!」
以前の雨と言い、先輩には水が滴りすぎではないだろうか。
保冷材に真っ先に手を伸ばした先輩はそれを脇に挟むと汗を拭い始めた。
「資料大丈夫でしたか?」
「おう、田辺に渡した」
「じゃあ麦茶も飲んでくださいね」
「へえへえ」
会議室の確認に行くと、田辺さんと数名が準備を進めていた。
「田辺さん、資料どうした?」
「わー! 神木さーん! もう間に合わないから入り口で渡すことにしたー!」
「うわ、そっか、分かった。ていうか冷房強くない?」
「外32度だって言うから……まずいかな?」
「んー来るときは良いかもだけど、あとで上げよう。私はブランケット用意してくる」
「助かる―! お願い!」
5分前になると続々とお客様が来たので、お茶の好みをうかがいながら席に案内した。
「温かいお茶と冷たいお茶がありますがどちらになさいますか?」
「じゃあ温かいものをくれるかな」
「私は白湯があればいただきたいんですが」
「承知いたしました。すぐご用意しますね」
ご案内を終えると今度はお茶の用意だ。
幸い10名中2人だけが温かいものを欲しいとのことだったのでなんとかなりそうだ。
「温かいお茶は真田様で笹渡様は白湯お願いします」
「他冷たいやつ?」
「うん!」
お茶配りも終えて田辺さんと笑顔でドアを閉めながら退室し、ふうと息を吐いた。
「神木」
「は、はい!」
秋山先輩だ。びっくりした、何かまだあったかと思っちゃった。
「よくやった」
「あ、ありがとうございま……」
ポニーテールにした頭をぐしゃぐしゃと掴んできた。お礼を言いかけたもののつい睨むと「そんな顔すんなよ」と手を離しながら言った。
「あの、そのまま行くんですか」
「ん? まあ着替えもねえしな」
田辺さんの顔を見ると彼女は顔をしかめている。
「汗臭いですよ」
正直に言うと今度は目を見開いて驚いた。
「げ、まじか。まあなんとかなんだろ」
そこは大雑把にしないでほしい。しかも自分の脇を嗅いで顔しかめてるし。
「ちょっと待っててください!」
ダッシュでデスクに戻るとせっけんの香りがする制汗スプレーを取り出して先輩の元に戻った。
「目、閉じてください」
「お?」
シャカシャカ振って制汗剤を吹きかけるとちょうど口を開けてしまったらしく先輩はむせた。
「す、すみません」
「ッゴホ、いや……サンキュ」
涙目で眉毛を優しく下げながら微笑む先輩に首をかしげると肩にポンと手を置かれた。
「ふ、」
一度苦しそうに眉をひそめて目を閉じる先輩は、ゆっくり息を吐くと表情を元に戻して、かったるそうに会議室に入っていく。
「……変なの」
小さくつぶやくと、田辺さんが「よく秋山先輩にあんな態度とれるよねー!」と驚いていた。
「そんなことより、次のお茶入れとこう。そろそろなくなる」
「わー! これが地獄かー!」
目をぎゅっと閉じて大げさに喚く彼女の背中を叩いて給湯室に戻った。
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