貴方

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貴方

 スクランブル交差点。  騒がしいこの街は、つい2ヶ月前の記憶なんてないみたい。  アスファルトに残る黒いシミだけが、事件を思い起こさせて胸が苦しくなった。  青信号を知らせるアナウンスが鳴り響くと、一目散に駆け出す。  大学に行かないと。 「あ。あの人……」 「ちょ、それ禁句だから!」  入学当時に戻ったような心境だ。  違うのは私が噂の種になってることくらいで。  流星が声をかけてくれなかったら、今私はどうやってこの中庭を歩いてるだろう。 「目の前で本田くんがさ……」 「事故でしょ?」 「かわいそうだよねー」  彼女たちも、流星とは仲が良かったくせに。  ただ無になりたくて、立ち止まり目を閉じると肩を叩かれた。 「神木先輩! 本田先輩の調子どうっすか?」  多田くん。  彼だけは変わらない気がする。  ほっと息を吐いて、前に回ってくる彼の姿を追う。 「傷もだいぶ良くなったよ」 「まじっすか! よかったー!」  明るく笑う多田くんに安心した。  長めの前髪をいじり、様子を窺うように小さく唇を開く彼が、問いかけてくる。 「今度お見舞い行っていっすか?」  そんなこと聞かなくてもいいのに。  いや、私が安定してからって言ったんだっけ。 「ぜひ来て! 流星もきっと喜ぶよ」 「じゃあ今日でも行こっかなあ」  いつもと変わらない思い立ったが吉日な彼が、流星を思い浮かべるような微笑みを浮かべた。 「早く先輩の顔見たいっすね」 「ね」  ゆったりと進む時間はまるで春のようだった。  私の携帯が振動するまで。 「あ、ちょっとごめん」  古びた白いガラケーの画面を確認すると累くんから。  多田くんから少し距離を取り通話ボタンを押すと、震えた彼の声が頭に響いた。 「刹那さ……兄貴が、急変してっ」  鐘がなるよう。  頭が割れそうになりながら、多田くんを置いて走り出した。  多分何か言いはしたと思う。  心配そうな彼の顔がどんどん薄れて流星でいっぱいになる。  病院にはICUで呼吸する恋人が眠っていた。 「肺炎ですって……」  憔悴したお母さんの姿がそこにはあった。  18日のあの笑顔は、夢だったろうか。  累くんはお母さんに飲み物を買ってくると言って、場を離れた。 「こんなのばっかりね……」 「そんな……、あの、流星の仲良い後輩くんも、お見舞いに来てくれようとしてて。だから、その」 「昔もそうだったの……身体が弱くて、ほんと」  そんなの知らない。  私、聞いてない。  今は関係ない愚痴みたいなものが溢れてきて、怖い。 「だ、大丈夫ですよ。きっとまたすぐに良く……」 「あの時死んでしまってたら、流星も楽だったのかしらね……」 「え?」  聞き取れないほどに小さな声が、鼓膜を鷲掴みにして痛い。  聞き返した時、血液が止まるくらいの冷たい瞳が私を見上げた。 「あんたに何が分かるの? 他人のくせに、知ったような口ばかり」  何かが落ちる音が響いて、累くんがお母さんの肩を掴む。 「やめろよ! 刹那さんだって家族みたいなもんじゃんか……」  転がったペットボトルを拾いもしないで、累くんは泣きそうな顔で俯いた。  私は笑えているだろうか。  流星のことを思い浮かべて笑ったら、頑張れる気がしたの。 「……まだ……待ち合わせ、したままだから」  ぎゅっと二人を抱き寄せる。  思いのほか温かくて、安心して離れることができる。 「刹那さ……」  累くんのか細い声が出口に向かう私の背中を引き留めようとする。  このまま帰らせて。  一生懸命足を動かした。  ねえ流星、白い月と太陽が追いかけっこしてるよ。  まだ誰かを照らす役割もなく、ぽつんと空に白い穴をあける月に、流星を思い浮かべた。 「私の笑った顔が好きって言ったよね、流星」  いつでも笑顔でいるよ。  涙はね、流星の胸で流すって、今決めたの。
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