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X-2
店に流れているFMが、軽やかな音楽から、落ち着いた女性の声に変わった。誰も話していない店内に、その声だけが満ちる。
「――大気の状態が非常に不安定になっております。急な突風、雷雨にご注意ください」
空がにわかに、暗く重い鉛色に変わり始める。
「……ひと雨来るな」
カウンターからのつぶやきが、すとんと心に落ちたときだった。
ポツリ、ポツリ、としずくがアスファルトににじむ。途端、ざあぁぁぁっっと、あたりを湿らせ始めた。
「どうしよ、オレ、傘、持ってへん」
「しばらくすれば止むだろう」
みるみるうちに濃く深みを増していく鉛色の空を、フタバはぼんやりとながめていた。
仕事柄切っても切れない色。この色に青空が塗り変わっていくときは、妙に心が躍る。
悲しみ。憎しみ。嘲り。時には腹の探り合い。衣を改め弔意を表しても、その中でうごめくものを、毎日のように見ない振りをしている。だからこそ、色を変えてもなお、子どものようにわき上がる感情をあらわにするこの空に、見とれてしまう。
稲妻が空を裂く。つい、笑みが浮かんだ。
半ば口を開いていたのに気づき、閉じる。ふと視線を感じ、顔を向ける。こちらを見るイチロウの喉が動いていた。
「どうした?」
「あ……! いや、なんでもない」
雰囲気をかき乱すかのようにストローを回し、氷の音をさせる。カラカラ……、としばらく音を立てると、イチロウは苦笑した。
「そういや、こんなふうに雨に降られたことがあったな。あれは確か、合宿の時か」
「ランニング中だったかな。どこかの家の軒先で雨宿りしたな」
「何言うてるねん。寺の軒先や」
そうだったかな? とフタバの目が空を泳ぐ。
「あん時もそうやって、パッカーンと口開けて空見てたな。」
口を押さえるフタバに、イチロウはからかうように笑った。
「虫歯、見えた」
「何本あった?」
「そんなんまで数えるかい」
「じゃあうそだな。虫歯はない」
悔しそうに口をとがらせる。今度はフタバが苦笑する番だった。
雨脚が強くなる。
外を行き交う人々も、最初は急ぎ足だったが、今はもう、あわてて近い建物に逃げ込んでいる。FMから流れる軽快なリズムも、だんだん、雨が打つ節奏にかき消され始めた。
「うわ……、強うなってきたなぁ」
「ゲリラ豪雨ってやつか。見ろ。」
打ちつける地面からゆらりと白いもやが立ち上がる。空はますます重く、低く垂れ込めていく。スマートフォンをいじくり回していた脱色男も、読書にふけっていた女も、顔を上げ、空の行方をじっと見つめている。
ただ、雨の音しか聞こえなくなった。その時だった。
「あ……」
――きた。
ないはずの気配。それが、音が鳴るのではないかと思うくらい、強く、肩を叩く。フタバは心を押さえ込んで、様子を探った。
「フタバ、何かおるんか?」
「しっ」
気配は背後をすうっと通る。この感じは、ついさっき味わったような……。
「大丈夫か? お前の霊感はすごいからなぁ」
「霊感じゃない。ただ、勘がいいだけだ」
「それを霊感いうねん」
これ以上呼吸が浅くならないよう、はくことに集中しながら、フタバはじっと気配を探る。
仕事の最中もときおりそばに、来る。見えはしない。気配を感じるだけだ。ただ、己の体と遺影の目の前で、生々しい骨肉の争いがくり広げられていると、その感情までが伝わってくる。――今も、そうだ。何か、怒ってる。
背後をすり抜けた気配は、隣の男のテーブルの真ん中を突っ切り、まっすぐ、店の入口そばにあるトイレに向かっていった。周りの景色がぼやけてくる。その一点しか見えなくなった。
「あ! フタバ!」
立ち上がるとまっすぐトイレに向かった。観音開きの扉で目隠しがされている。それを勢いよく両側に押しやると、向かって右側にトイレがある。フタバはノブに手をかけると、いらだだしそうに何度も回す。
「くそ! 鍵か! イチロウ! コイン貸してくれ!」
追いかけてきたイチロウが、ポケットから十円玉を取り出す。むしり取ると、フタバはノブの鍵穴に当てた。クルリと銀の円が回る。おそるおそるドアを手前に引いた。
重みと、何かがずり落ちていく感触がドア越しに伝わる。ドサリ、という音にフタバは目をギュッと閉じた。
「な……! これ、なんや!?」
長い髪を一つに束ね、赤いエプロンをした女性が、床にごろりと横たわった。天を仰いだ目に生気はない。口の端からはほんの少し、白いものが伝っている。
さっきカウンターの端で食事をしていた〝レイちゃん〟だった。
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