5月

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5月

 受験勉強の強い味方だった英語のコマツザキ先生が体調を崩し入院した。代替えで来た今一つパッとしないホソヤ先生は言った。 「コマツザキ先生は心の病気と聞いています。彼は一人で熱血過ぎましたからね。誰も、そこまで求めてないことをして、し過ぎて、病気になったとも言えます。郷に入れば郷に従え、とはよく言ったものです。この高校では受験する生徒は、いても一人か二人。大半のみなさんが必要にしている英語は受験のための英語ではないでしょう?」  私は開き直り、英語の時間は問題集を解きまくる時間に決めた。隣のアヤカは相変わらず質問してきた。 「私は、もう少し頑張って勉強しなきゃいけないと思ってるんだけど、勉強できない。どうすれば、そんなに勉強し続けられるの?勉強していて楽しいの?」 「知りたいことを知るのは楽しい。苦労して考えて問題を解くのは楽しい。知識が増えると新しい思考回路ができて、今まで何も感じなかった物事でも感動を持って見直したりすることもある。勉強は楽しい。」  あえて私は、そう言った。そもそも、勉強しているだけで悪者みたいな言い方をされることに不満を感じていた。少しくらい抵抗してもいいじゃないか。  担任のクロカワ先生は敬虔なキリスト教徒であるらしい。教室では、そんな素振りは見せないが、他の先生や地域の人々の噂では、彼は学校の先生より牧師になるべき人らしい。  ある日の昼休み、私はクロカワ先生に呼ばれ、廊下の隅で立ち話した。 「アヤカが、リサはクラスのみんなと打ち解けず勉強ばっかりしているようだが、かわいそうに思う。みんなと仲良くさせる方法はないだろうか?と私に何度か相談に来た。実際、リサは何か困っているのか?」  私は驚いた。そんなことで担任にまで相談する神経を理解できなかった。 「はっきり言えば、そんなふうに心配される方が私には迷惑です。みんなと仲良くしたくないとは思っていません。ただ、今、自分にとって大切な勉強をしたい。それは、いけないことですか?」 「高校生が勉強するのは当たり前だから、勉強するのはいい。リサが困っていないなら、自分の思う通りに過ごしたらいい。アヤカには私から説明しておこう。ただ、アヤカの気持ちも少し考えてみてほしい。社会には、いろいろな考え方の人がいる。自分の思い通りに行かないのは世の常だ。どうすることがいいか悪いかではなく、多様な人がいることを考えながら行動するゆとりは、どんな状況でも忘れてはならないことだと私は考える。」  担任の言葉は私の時間を重くした。私は、彼によって否定されたとまでは思わなかったが、厳しい追及を受けた実感があった。私は次の日、高校を休んだ。家は普通に出たが、学校へ行く気持ちになれなかった。制服を着ているので街中をフラフラする訳にいかず、神社の境内の奥にあるベンチに腰かけて聖書を読んだ。クロカワ先生がキリスト教徒だというので、彼の言葉の背景にある倫理観を知りたかった。  『良い人は、その心の良い倉から良いものを出し、悪い人は、悪い倉から悪いものを出します。なぜなら人の口は、心に満ちているものを話すからです。』  ルカによる福音書のどこかに、そんな言葉を発見する。クロカワ先生の 『多様な人がいることを考えながら行動するゆとり』を想像する。  たとえ相手が私について、多様な人という認識を持って寛大に接してくれない場合でも、自分は、相手の多様性を認識するゆとりを持って行動することが望ましいというのか。それを日々実践するのは、なかなか厳しい修行である。  『人の口は、心に満ちているものを話す。』それは真実だと実感する。私はもう、何も言えない気持ちになる。たとえ人から非難されてもいい。自分は人を非難しない。批評しない。感想を述べない。考えを話さない。それしかない。  私の心に満ちているものは、世界平和ではない。自分の将来の夢の実現に向けた受験対策である。それは世界平和や仲間の平和を第一に考える人々にとっては傲慢な自己中に過ぎない。バカ正直に考えていることを言葉にすることは、確かに人を傷つけ、苦しめる可能性がある。  その日以来、私は無口になった。アヤカが何か質問しても黙って微笑むだけにした。この方が彼女を傷つけないか、もっと傷つけるか、わからなかった。けれど、他にどんな方法も思いつかなかった。
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