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8月
夏休み中だった。お盆が過ぎ、明日から学校が始まるという日の夕方、連絡網の電話が来た。
『アヤカ、死んだって。明日、お通夜で、明後日がお葬式。とりあえず、明日、先生から詳しい話があるから、次の人には、死んだってことだけ伝えればいいそうです。』
電話をしてきたクラスメイトは、淡々と語り、電話を切った。
その晩、夢を見た。アヤカが私に手を差し伸べて
『ねえ、手をつないで。いっしょに行きましょう。』
と確かに言った。何度も何度も繰り返し、そう言った。
目覚めた時、私はビッショリ汗をかいていた。
震えた。青ざめた。
アヤカの死。どういうことなのか想像ができなかった。
次の日、教室に入るとアヤカの机に白い菊の花が飾られていた。
私は、その隣に座る勇気がなかった。
私は倒れそうになり保健室へ行った。養護の先生に訳を話すと、先生はいっしょに教室まで来て、アヤカの机を後ろの窓際に移動させ、その上に花を飾った。
クロカワ先生の説明。
アヤカには双子のお兄さんがいて、お兄さんは成績が優秀で、都会の進学校に通っている。両親の話では、アヤカは幼い頃から常に学校や地域の人々からお兄さんと比較され、劣等感にさいなまされてきた。
兄は兄、アヤカはアヤカ、と両親はアヤカの良いところを認め、アヤカなりの生き方をすればよいと思っていたらしいが、アヤカは、自分が勉強に打ち込めないことを悩んでいた。
体育祭や学校祭で、アヤカは一生懸命に頑張ったが、
『どんなに頑張っても自分にはできないことばかり』
と、よく言っていたらしい。
学校祭が終わった日から元気がなくなり、食欲もなく、夜もろくに寝ないで夢遊病のようにフラフラと出歩くようになった。そんな日が1ケ月以上続き、心配した両親はアヤカを病院へ連れて行った。
病院で軽いウツと診断され、無意識に出歩くのはキケンとの判断から、少し入院して様子をみてはどうか、という話になった。
入院して3日目、病室でアヤカは首を吊った。シーツを引き裂き、カーテンレールに結び付けて。
私たち同級生はバスに乗り、隣町の斎場まで移動。アヤカのお通夜とお葬式に参列した。
お葬式が終わり、会場を出る時、私はアヤカのお母さんに声を掛けられた。
「アヤカの隣の席のリサさんですか?アヤカはいつもあなたの話をしていました。とても一生懸命、勉強していらっしゃるんですってね。」
私はゾッとした。お母さんの顔を、まともに見られなかった。
私がアヤカを追い詰めたと言いたいのか。私に責任があると言いたいのか。私の隣の席じゃなかったら、アヤカは死なずにすんだとでも言うのか。
その後、1週間以上、私は学校を休んだ。眠るとアヤカが現れて
『ねえ、いっしょに行きましょう』
と手を差し伸べて来る。
クロカワ先生から電話が来た。
「アヤカのお母さんが言ったことは何も気にすることはない。お母さんは誰かに何か言いたかっただけだ。リサには何も非はない。誰も、そんなことは考えていない。気持ちの整理ができたら学校へ来なさい。来て、無理だと思ったら、すぐ帰ればいい。」
私がアヤカのお母さんに呼び止められたのを、先生は見ていたのだ。
学校へ行った。教室には、いつもと同じ平和な時間が流れていた。
ただ、あの子がいなくなった。
その後、私は普通に学校に通い、勉強して希望の大学に合格した。大学に合格した時、心に誓った。
ゴールはここじゃない。ここはスタートだ。自分の希望する道を歩むため、無我夢中で走り続けて来たけれど、途中、足元の泥を浴びせてしまったかもしれない人々に、私は何をすべきだろう。どう生きることで私は正々堂々と胸を張って歩めるだろう。
これからも勉強して、よい仕事をして、良いものを心に満たせるように努力すれば、自然に、良いものが口から、体からあふれるだろうか。
それから何年過ぎても私は迷いの中にいる。
私はあの時、どうすることがベストだったのか。
心の奥底に沈殿した泥を掻き分けると、今もアヤカの笑顔が現れる。
だからこそ、できることもあり、できないこともある。
忘れ得ぬ記憶。
アヤカは今も私の人生を変え続けている。
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