月明かりの少女~Clair de Lune~

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 月明かりの下で、一人の少女がグランドピアノを弾いている。  少女の肌は陶器のように白く、透き通るガラスのような銀の髪に、瞳だけが深い青色をしている。少女は美しかった。そして美しいがゆえに、酷く脆かった。 「ただいま、お腹がすいたろう」  男が少女のために建てた小さな離れに、彼女は住んでいる。そこへ少しの食べ物と土産話を持っていくのが、男の日課だった。杖と床とが奏でる硬い音を聞きつけると、少女はピアノを弾くのをやめ、男を迎える。  パンと果物と、少しのワイン。男が少女に与える食物は一日にこれだけだ。彼女にはそれで充分だったし、言ってしまえばこれがなくとも彼女は飢えなかった。 「空気の澄んだ、良い夜だね」  男の言葉を肯定するように、少女は男の手を優しく握った。  離れの天窓を抜け、銀の月光が彼らを照らす。少女は腕を大きく広げ、その光を存分に浴びた。世界広しといえども、月光を栄養にする人間は、彼女のほかにいないだろう。一糸まとわぬ姿の少女は、月光の中にあっていっそう美しかった。  新月の夜は、男は離れに近寄らなかった。  空のどこかに月さえあれば、たとえその光が雲に遮られようと、少女は空を仰ぎ雲の向こうの月光を感じ取る。しかし、月そのものが闇に閉ざされる新月の日だけは、彼女は病人のように臥せってしまい、部屋から一歩もでないのだった。  新月の前の晩に、いつもより少し多めの食料と、小さな可愛らしい砂糖菓子を籠にしのばせる。そして新月の夜は、男は少女の美しい姿をまぶたに思い描きながら、孤独な静寂に耐えるのだった。  それは彼女も同じだろう。新月の晩は、少女もまた孤独だった。柔らかな毛布に身を包み、じっと夜が明けるのを待つ。男にもらった砂糖菓子をかじりながら。時計の秒針の、無機質で規則的な音を聞きながら。  そしてまた月が満ち始めると、男は離れを訪れる。少女もいつものように、男を迎える。盲いた男が杖をつき、杖と床とが硬い音を奏でる。その音を耳にすると、いつも彼女の心はざわめくのだった。  少女の肌は陶器のように白く、透き通るガラスのような銀の髪に、瞳だけが深い青色をしている。少女は美しかった。何よりも美しかった。その美しい姿を目に焼き付けたまま、男は割れたガラスに目を潰された。  あれは事故だった、と男は言う。けれど、事故ではなかった。少女がそうしたのだ。ステンドグラスの美しい破片が、男の眼にしっかりと刺さるように。少女は注意深く、慎重に、綿密に計算して考えて、ステンドグラスを叩き割った。色とりどりのガラスの破片が、月光の中に鮮やかに舞い踊る――それが、男の見た最後の光景となった。 「きっと窓枠が歪んでいたのだろう。それで、思わぬ負荷がかかり、ちょっとした衝撃で割れてしまったのだろう。ガラスを浴びたのが、おまえでなくて良かったよ」  潰れた目と、顔に残ったたくさんの傷を全く気にしていないように、男は微笑んだ。少女は泣いた。男が哀れでたまらず、自分が憎くてたまらなかった。それでも、男と自分の世界を守るには、こうするしか思いつかなかった。 「今宵の月は細いだろう。充分に栄養を取れているかい。痩せてはいないかい」  男の伸ばした手を、少女は自分の乳房に触れさせた。そこに性的な意図が絡む隙などはなく、男はただ真実の愛をもって、慈しむようにその白い房を撫でる。 「ああ、今日も美しいね」  男は満足そうに笑い、少女もまた微笑んだ。少女の八つの乳房は、月光の中に白く浮き立っている。背を突き出して生える五本の腕も、柔らかな腹から伸びた七本の脚も、どれもが白く美しく、月の光に照らされて、夜空に異様なシルエットを描き出していた。  世界広しといえども、月光を栄養にする人間などどこにもいないだろう。彼女が正しく人間であったのは、彼女が初潮を迎えるまでのわずかな間のみだった。  新月のたびに、彼女の身体は異形性を増していった。腕が増え、脚が生え、首は硬く長く伸び、醜い角が皮膚を突き破った。初潮を迎えてから何度目かの新月の晩、髪の奥に乳白色の角と、脇の下に小さな腕の芽を認めたとき、彼女は自らの運命を悟った。そして、男の両目を潰した。  少女の肌は陶器のように白く、透き通るガラスのような銀の髪に、瞳だけが深い青色をしている。  顔面いっぱいに広がる無数の青い目で、少女は細い月を見上げる。少女は美しかった。そして美しいがゆえに、酷く脆かった。それでも少女は、美しくありたかった。自分を愛してくれる男の記憶の中で、いつまでも美しくあり続けたかった。  月明かりの下で、一人の少女がグランドピアノを弾いている。ベルガマスク組曲、第三曲「月の光」――かつて少女だったものが、その美しい旋律を奏でる。通常よりもずっと多い、しかし器用に動く華奢な指が、白と黒の鍵盤を行き来する。男は見えない目を閉じて、変わらぬ闇の中でその旋律に身を預ける。  いつか別れのときは来るだろう。それは男が少女の真実を知ったときかも知れないし、男の心臓が止まるときかもしれない。  けれどその時までは、二人は誰にも侵されない、二人だけの愛を紡ぎ続ける。  月明かりの下で――。
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