ぷつん

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電話が苦手だ。 電話の電子音が鳴るたびに、身構え、緊張してしまう。 もういない先輩は回数をこなせば慣れるよといっていたが、 いくら経っても慣れる気配はなかった。 今日もまたプルルルルルと呼出音が鳴っている。 誰か電話を取らないかと辺りを見渡してみるが、デスクに座っている 先輩たちは一様に受話器を取ろうとしない。 固定電話のナンバーディスプレイには、いつものクレーム客の電話番号が表示されていた。 その下に「電話を切るときは頭のなかで1、2、3と数えてから」と私の手書きの字で附箋が貼ってある。 それが目にはいると、胸がギュっとなった。 電話に出たくない、その思いで胸が締め付けられる。 相手が痺れを切らして電話を切ってくれないかと思っても、執拗に呼出音は鳴り続けている。 プルルルルルルル……その音を聞いていると だんだん焦って、慌てて、気が急いてくる。 人を追い立てるような周波がその音から発せられているような気がした。 上座に座っている上司が、私をチラリと見た。 この中で一番下っ端の私が電話を取れと命令してくる。 それでも受話器を取らないでいると、上司の雰囲気が陰険なもの変わってくる。 一目見て苛々しているとわかるぐらい、上司は私を威圧していた。 気難しい上司に逆らえば最後、ぐちぐち文句を言われることになるだろう。 私はキーボードを打っていた手を止め、深呼吸をする。 これだけ時間が経ってもなお、電話は鳴り続いていた。 私は受話器を取り、耳にあてた。 案の定、スピーカー越しに機嫌の悪い男性の声が聞こえてくる。 その男性の声を聞くと、知らないうちに体が竦み上がって、動けなくなりそうになる。 私は小さな声で「う、内堀弁護士事務所です」とかろうじて答えた。 「あのさあ! 電話取るの遅くない! どれくらい待たせるんだ!?」 「は、はい申し訳……」 「謝れば済む問題だと思ってんのか!?」 「そ、そんなことは……」 「お前みたいなトロくさい女なんて電話番ぐらいしかできないんだからちゃんとしろよな!」 いつもの罵詈雑言。 これを一時間、相槌を打ちながら聞かなくてはいけないのだ。 この客は、この弁護士事務所のクライアントで、常日頃から担当弁護士とコンタクトを取ろうとする。 しかし担当弁護士は事務所にいないことが多く、大抵この客は事務員の私たちを罵倒して、愚弄して、人格を否定して、電話を終える。 クライアントなため無下にはできず、事務員はただ黙って聞いているしかなかった。 「は、はい、はい……」 「はいは一回でいいっての! これだから低学歴は!」 スピーカーから男の大声が漏れ聞こえているはずなのに、同僚たちはそれを環境音にして仕事を続けている。 誰も代わってはくれない、誰も助けてはくれない。 それがこの事務所の、当たり前だった。 「この不細工女が!」 私と会ったこともないのに、男はそう捨て台詞を吐くと、ガチャンと電話を切った。 プツンと大きく音を立てて電話が切られ、ツーツーと話中音がスピーカーから 冷たく流れている。 私はガチャンと、わざと音を鳴らしながら受話器を置いた。 同僚たちがその音に驚いて迷惑そうに私を見ている。 最近、ずっと胸がモヤモヤして辛い。胸を掻き毟りたくてたまらない。 私はもう一度、深呼吸をした。そうしないと、涙が零れてきそうだった。 「浅沼さん、もうちょっと早く電話を取るように。もう新人じゃないんだから」 「そうよねえ。ずっと鳴りっぱなしだったし」 「手が空いてる人が取らないと」 上司が、先輩が私に注意する。 私がクレーム客にどんな言葉で罵倒されていたのか知っているはずなのに、 そのことに対して何も慰労もなく、ただそう告げられる。 「……わかりました」 呟いた声は、掠れ、とても小さかった。
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