果てなき空に見る星よ

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 ────……この世は地獄。  花が舞い、色を売り、虚像に彩られた世界。心も言葉も偽りであるくせに、起こる痛みは全てが現実。  その中でもがき、足掻き、泣き、必死に生きようとする女たち──……  * * *  泣き声が響き渡る。遊女のそれではなく、禿のそれでもなく、この世に生を受けて発した初めての泣き声。  生々しい男の欲望のための里に、余りに似つかわしくない声だった。 「産まれたか」  この楼の楼主である男が室内から出てきた自身の女房に尋ねる。 「あぁ。母子ともに無事さ」  お荷物にしかならない赤子の誕生ではあるが、そこには妊娠期間中から様子を見て世話を焼いていた情が移っているのだろう、嬉しそうな表情でそう告げてきた。  久々の上玉だと思った。磨けば光る原石。大見世にはまだまだだが、中見世の中では一歩抜きん出ている自身の楼。それを突破出来るやも知れぬと高い金を払って買った少女。  既に孕んでいるとは思いもしなかった。  朝霧(あさぎり)の名を与え、振袖新造として花魁(はなふさ)につかせた。舞踏の師匠も筋が良いと褒めていた。古くから居る遣り手婆も珍しく気に入っていたようだ。これは上手く育てば化ける、太夫にも手が届くかもしれぬ、と胸踊らせていたころだった。 「主さん、朝霧でありんすが……孕んでおりんすよ」  英にそう告げられた時は衝撃だった。仲介屋に払った金額、これから朝霧が稼ぐであろう金子が脳裏に浮かぶ。それらが水の泡になってしまう。  すぐに堕胎するように厳命した。朝霧から返された反応は思ってもみないほどの激しい反発だった。 「絶対に嫌だ!」  半年掛けて叩き込んだはずの廓詞(くるわことば)も吹き飛ばし、端整な顔を怒りに染めた。 「この腹の子は俺の子だ。ここで流れたら二度と宿せない(相手)の子だ!」  好いた男との子か。だとしても。その視線だけで人を射殺せそうな眼差しで睨んでくる。 「今生ではもう二度と会えない覚悟で来たんだ。この子は俺のたったひとつの拠り所だ!」  吸い込まれそうな漆黒の目。激情が迸っている。好いた男との今生の別れとして契ったのか。その結晶。 「産むつもりか。借金はどうするつもりだ」 「返すさ」 「その身重の身体でか。それ以上腹が出てくれば客に気付かれる。客を取るどころじゃねぇぞ」 「ここで働いてるのは女郎だけじゃねぇだろう。裏方にだって女は居る」 「お前の借金が幾らあると思ってるんだ!」 「……俺たちは確かに商品だ。金で買われた商品だけど、心まで失せたわけじゃねぇ」  楼主の隣で女房が僅かに動揺する。かつて自身も遊女として苦しめられていたころを思い出したのだろうか。  日を変えて何度説得しても梨の礫だった。 「まだこうやって話をしているうちに諦めた方がいいぞ」  業を煮やして脅しのような言葉を投げ付けても、朝霧の覚悟は揺らがなかった。 「脅しかよ。脅せば何でも言うこと聞くとでも思ってんのか」  実際このままではそれは現実となる。それは朝霧も判っているのだろう、必死の形相だ。 「借金で俺たちを縛りつけて、言う通りにしなけりゃ脅しか。この廓で年季が明けたり身受けされる女がどれだけいる。それより浄閑寺(じょうかんじ)に放りこまれる女がほとんどだろうよ。女を大事にしねぇで何が遊廓だ。何がこの世の極楽だ。生きる希望もねぇ。相手する女の心が籠ってなけりゃただの茶番さ」  生きる情熱を全て注いでいるようだ。こんな小娘に呑まれそうな錯覚を起こす。 「てめえの女房に注いでる情の欠片でも俺たちに注いでみろ。たったそれだけで俺たちは救われるんだよ! 生きるよすがを奪われて堪るかッ!」  涙を溢しながら一歩も引かず、(あるじ)である自分に我を主張する朝霧を見て、不覚にも──綺麗だと思った。  廓に居る(おんな)たちは、それが売りのひとつなのだから確かに綺麗ではあるが、膿んだところがある。性を生業としている遊廓の爛れた闇の部分。生きる糧を失い、投げ遣りな振る舞いをする遊女は多い。  その中で、この朝霧の全身全霊で生きようとする姿は眩しいものだった。  溜め息をひとつ落として、気付いた時には「好きにしろ」と告げていた。 「え」 「あんた?」  女房と朝霧が同じように呆けた声を出した。内心しまったと思うも、一度声に出してしまった言葉はなかったことにならない。 「い、いいんだな!?」 「あんた、大丈夫なのかい?」  ──こんな酔狂も、ひとりくらいやる主が居てもいいかもな。 「ただし、裏方の仕事はきっちりやってもらうぞ。費用ももちろん借金に加算されるからな」 「判ってる」  朝霧はそれでも思い切り睨み付けてくる。 「特別扱いはしねぇ。それと、言葉使いを改めろ」 「判った」  確実に無事に赤子を産めるかどうかは保証はない。けれどこれだけは解らせておかねばならぬこと。 「産んだからといって、子をここで育てられるとは思うな」  ふたりの女が同時にハッと顔を強張らせる。 「いいか、さっきお前が言った通りここは遊廓だ。客にこの世の極楽を見させて金を落とさせるところだ。そこに日常に立ち返らせてどうする」 「あんた……」  元遊女の女房が不穏な気配を感じたのか、意味もなく呼び掛けてくる。朝霧は気を緩めず睨み付けたままだ。 「産んだら産んだで殺すってことか」  唸り声は地を這う声。 「殺しなんかしねぇよ。将軍様の子でも死んじまう世の中だ。どうなるかなんて判りゃしねぇ」  将軍の子でも、武士の子でも、農民の子でも、遊女の子でも、無事に産まれて無事に育つかどうかなんて判らない。 「遊女を母に産まれてくる子だ。女なら遊女に、男なら裏方だ。いいな、その覚悟はしておけ」  朝霧は唇を噛み締めて、叫び出すのを必死に堪えているようだ。  この世は苦界。どんな人間でも辛酸を舐める。例外は城の奥深くに隠されているお姫様ぐらいなものだろう。  朝霧を置いて部屋を出ると、怒りとも哀しみともとれるくぐもった泣き声が聞こえてきた。  女の純潔を奪い、望みを奪い、他の生き方を奪い、果てには命までも奪い──()(ふと)る。  遊廓などとは、そんな場所だ。
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