果てなき空に見る星よ

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 産まれた赤子は男児だった。これで将来遊廓で働く亡八(ぼうはち)がひとり増えたわけだ。  朝霧は子を産んだあと、自身の乳首を咥えさせた。乳などそう簡単に出ないだろうと高を括っていたが、誤算だった。朝霧は腹に居るあいだに念入りに乳房を揉んでいたらしい。出だしは悪かったものの、続けているうちに赤子も吸い方のコツを掴んだのか、ゴクゴクと喉を鳴らして飲むようになった。  乳房というものは赤子に乳を与えることが本来の役目かもしれぬが、これで朝霧が客を取る遊女になる道はなくなった。客はここに夢を求めて来る。子を産んで授乳をして色も形も変わった母の乳房を喜びはしないだろう。頃合いを見て仕込み直して遊女に……という思惑はパァだ。  そして、楼の(おんな)たちも変わった。  今までは遊女として買われたのに客を取らない朝霧に嫌味や嫌がらせを仕掛けてきた。妓も集まれば気が強くなり厄介な事故(こと)を起こすこともある。妓のやり方は陰湿だ。だが、朝霧が子を産んでからはそれがなくなった。  嫌味を言っていた連中も、一目赤子の顔を見ようとしてくるし、身重の朝霧を転ばせようとしてきた連中も手を出さなくなった。顔からきつさがなくなった。それどころか日に日に淀んだ空気が抜けていき、爛れた雰囲気が消えていった。信じられなかった。  もちろん赤子の存在は他の楼には極秘だ。妓たちに箝口令を敷く前に、楼の人間全てが協力的だった。赤子というものはそれほどの存在なのだろうか。妓たちの心が穏やかになっていくのが手に取るように判った。居心地の良い楼にしようと色々と手を尽くしてきた過去が馬鹿みたいだ。  たったひとり、赤子が産まれただけなのに──  妓たちが落ち着けば、楼全体の雰囲気も落ち着く。そうなれば必然的に居心地が良くなる。そして居心地が良くなれば、客が着く。もちろん客は刹那の刺激を求めて来るが、最終的には穏やかな時間を求める客も多い。 「ほれ、主さん。今主さん見て笑ったよ」 「ほんざんすなぁ」  朝霧に与えた狭い部屋の襖を開けると、楽しそうな笑い声が溢れていた。この部屋には絶えず誰か遊女が居る。 「これ。わっちにもお笑いなんし」  朝霧の腕の中で頬笑む赤子の頬を遊女の指が突つく。その様子を見て笑う朝霧の顔は母の顔だ。 「おい、部屋に戻れ。三味(しゃみ)の練習しておけよ」  声を掛けると赤子の頬を突いていた妓は名残惜しそうな顔をした。妓が部屋を出て行ったのを見送ってから、朝霧を見る。 「主さん?」  言葉使いを改めるように言ったあとは、廓詞ではないにしろ落ち着いた口調になった朝霧に向かい、非情であろう言葉を告げる。 「朝霧。覚悟を決めろ」  視線を一瞬だけ赤子に向ける。それだけで朝霧は理解した。僅かに開いた口からは何の言葉も出ず、瞬きを忘れたように目を見開いた。 「主、さ……」 「酷なことを言ってるのは判ってる。しかしな、こんぐれぇがけじめのつけどころだ」  想定外だったとはいえ、思わぬ形で産まれた時からの成長を見てきた。自身にだって情はある。赤子は可愛い。可愛いけれど、ここは遊廓だ。 「そろそろ乳離れだろう。乳をやり終わったなら、いつまでもここには置いておけねぇ」 「亡八には……廓の人間にはしたくねぇ!」 「仕方がねぇ。ここに居るからには廓の仕事をするしかねぇんだ。言っておいただろうが」  朝霧は腕に抱く赤子を力いっぱい抱き締める。 「今すぐ取り上げたりなんかはしねぇよ。ただし覚悟は決めろ。いつまでもふたり揃ってここに置いておくことは出来ねぇからな」  あっという間に涙が盛り上がり頬を伝う。それでも朝霧は奥歯を噛み締めて嗚咽を漏らさないようにした。 「離れたくねぇ……!」  本心だろう。恐らく子を持つ母ならばみな同じく感じるはず。  朝霧の前に座り、目線を併せる。朝霧の目は相変わらず強い。それは子を産んで増々磨きが掛かっていた。 「来週、客が来る。お前が相手をするんだ」  遊廓で、男が遊ぶ場所で()()()()()と云うその意味は──明確。  朝霧の顔がみるみる険しくなる。そうだろうな。 「……客を、取れってことか」  怒りを無理矢理圧し殺した声音。怒り──朝霧は己の主に怒りを感じたんだ。しかし、朝霧は(ここ)に買われた身。怒りを感じるには道理は通らない。 「お前も他の(おんな)たちと同じここの妓だ。楼主(主人)の命令は絶対だ」  ギリッと奥歯を噛み締めた音が聞こえる。理不尽であろうと、非情であろうと、これが遊廓だ。 「……相手しているあいだ、この子はどうなる。もしかしてそのあいだに始末する魂胆か!」  興奮した母の声に驚いたのか、赤子がビクッと身体を震わせた。仕草ひとつとっても──可愛い。赤子は、確かに可愛い。 「いいか、朝霧。落ち着いて聞け」  これが、楼主である自分にやってやれる精一杯のこと。 「客は先代からここを贔屓にしてくださっている上得意様だ。遊び方も綺麗だ」  先代(親父)からの顧客で、揉め事ひとつ起こしていないし、懐も広い。信用もある。だからこそ。 「お前のことを相談した。赤子の顔を見て、引き取るかどうかを決めると仰っている」  朝霧は目を見開き、ぽかんとした顔をした。理解が追い付いていない表情をしている。 「お前はその子を亡八にしたいか?」  亡八(ぼうはち)──(じん)()(れい)()(ちゅう)(しん)(こう)(てい) の八つの徳目のすべてを失った者。どこかで揉め事が起きれば介入し、力でもって解決させる。足抜けしようとする遊女が居れば必ず連れ戻す──生死を問わず。そんな徳を忘れた男たち。 「……したくねぇ。けど……」  遊廓で産まれながらも、遊廓の仕事はさせたくない。けれども離れがたい。世の中はいつも無いものねだりだ。 「今は隠居された方だが、名のある御方だ。気に入ってくだされば、養子に迎えてもよいと」  破格と云ってもよい対応だ。先代からの御贔屓だからこそ、引退されて時間と金に都合のつく御隠居だからこその対応。 「お前はここに借金のある身だから返し終わるまでは無理だが、産まれた子には何の(しがらみ)もねぇ。だったら引き取ってやってもいいと言ってくださってる。どうする、それでも子を亡八にするか」  みるみるうちに朝霧の目に涙が浮かぶ。 「だから来週、お前が御隠居の相手をするんだ。お前が直接話してみて、覚悟を決めろ」  頬を涙が伝う。朝霧はそれを拭いもせずに泣き笑いのような表情を浮かべた。 「……二度と会えなくなっても、この子を亡八にしなくても済むんだな」 「二度と会えなくなるわけじゃねぇ。お前が無事に借金を返し終わればこの苦界からは解放されるんだ。それから会いに行くことも出来る」  可能性は低くとも。例えほんの僅かにしか望みがなくとも。望みのない夢ではない。それが励みになればこの地獄を生き抜く糧になる。
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