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その8
二日前、あんなに怒って電話を切ったくせに、研究室のドアをノックすると教授は「やぁ!」と笑顔で私を中に迎え入れた。丸二日、あの機嫌のままでいる方が変なのはわかるが。
「入りたまえ」
招き入れられた部屋は研究室の奥にある金庫のような扉がついた部屋。
記者の時も一度か二度しか入れては貰えなかった。プライベートではもちろん初めてだ。
そもそも、プライベートで入る人などいない部屋だ。
研究室の数倍ある薄暗い部屋。暗闇の宙に、チカチカと出入り口以外の三方の壁が規則的な電飾のような光を発している。目が暗闇に慣れると私はその正体に言葉を失った。
「華氏451のようだろ」
教授は私の後ろで、自慢げな笑みを浮かべていた。『華氏451』が何のことを指しているのかはわからないが、おそらく教授の趣味の古典の小説か何かの例えなのだろう。
私が記者だった頃は一つの壁にしか無かった巨大スクリーンが三つの壁にかけられていた。
そしてそのスクリーンに映っていたチカチカと虫のように動いていた光の正体はスピンパネルのピースだ。
「すごい……」
三面のスクリーン全てがスピンパネルを表示するスクリーンで占領されていたのであった。
「これでもこの街の千分の一の情報量にすらならないんだよ」
スクリーンは現在は使用していない様子で、少量のスピンパネルが慣らし運転で動いているだけのようだった。それでも、蛍が水面を飛び回っているようで美しい光景だ。
教授は部屋の中央に設置されているコンピュータの方へ歩いて行き、パソコンの周りの機材の準備を始めた。
「君も、こっちに来たまえ」
そして、私を一つのスクリーンの前に招待した。
「教授、あの話というのは?」
私が尋ねると教授は思い出したようにこっちを振り向いた。
「その前に君に確認しておきたい事がある。同意書は破ったのか?」
機嫌は治っているが、記憶はあの夜のままだ。
教授は私と話をしながら、床に落ちていた髪の毛の束のような物凄い数のコードを一本づつ、コンピューターに繋げていった。
「……ああ、はい。一応」
「友人として忠告しておく。君の嘘は正直に話す時よりも真実に近い」
「……すいません」
私は、よく作業をしながらそんな早口で喋れるなぁ、と感心した。
「一昨日は僕も急に怒鳴って悪かったと思っている。君が同意書に頼りたくなる気持ちも分からなくない。おそらく、その同意書を医者に持っていけば、君の全ての悩みは丸く収まる」
「え? じゃあ……」
「僕は反対だ。だが、これはあくまでも『君の家族』の問題だ。あと、二日も時間をもらって、あの日より僕は成長した。だから、怒鳴るという子供なやり方からレベルを上げる」
「レベルを上げる」の意味がよく分からなくて、返事が何も出てこなかった。
「いわば、強要をやめる。今日は対決だ」
「対決? なんのですか?」
「僕のプレゼンで君が感動するかどうか? 僕の教授人生を賭けた対決」
聞けば聞くほど、意味が床のコードの様にこんがらがってくる。
そんなコードをよく迷いなくパソコンに挿して行けるな、と私は感心した。コードの一本一本に名前でも付けているのだろうか。
「あの、何も、そんな大事にしなくても……」
「いや、君は僕の親友だ。だから、僕も必死だ」
なんだか意見を言うたびに話がとっ散らかっていく。
ちなみに教授は私よりも五つも年が若い。
「実は僕は今、というか、君と出会う前から面白い研究をしているんだよ」
「面白い研究……?」
私が驚いた表情をしたのを見て、教授はニヤッと笑った。
「心配しなくてもいい。君がこの研究を口外しないのはシミュレート済みだ」
「スピンパネルでですか?」
「そんな事、何年も酒を飲んでればわかるだろ」
教授はそう言うとコードを挿す手を止めて、私の方を見た。
「君はいい奴だ。だから、この研究は誰にも見せないつもりだったが、君だけは見せる事にした」
「あ、ありがとうございます」
「まぁ、僕以外、こんな馬鹿げた事を思い付く奴はいないだろうから、誰かに言ったところで、君が恥をかくだけだがな」
そうは言って豪快に笑う教授に私は意を決して尋ねてみた。
「何の、研究でしょうか?」
「『運命学』の教授である以上、運命に関しての研究だよ。ただね……」
教授はまた束のコードを刺す作業に戻った。
「ただ、この研究はポジティブなものだ」
「ポジティブ?」
「うん。今の世の中じゃポジティブな研究は好かれない。だから発表する気は今のところ無い」
「どうしてですか?」
「もともと、スピンパネルは運命の脅威から人間を避難させる為に生まれたものだ。だから、火山が噴火している最中に「火山の熱を利用して温泉施設を造りましょう」なんて提案しても、怒鳴られるだけって事」
なるほど。
「ただね。僕は運命も自然と同じだと思っている。
大き過ぎる力は確かに人間には脅威だ。それを避けるためにスピンパネルを利用するのは間違っていない。大正解だ。
でも、ある程度の余裕ができたら、『自然は絶景だ』って事も世間に広めていかなくちゃいけないと思っている」
「そのタイミングを教授は待っているってことですか?」
「そう。で、その時、世に発表したいコンテンツを、これから君に見せる」
研究をコンテンツなんて言うのはこの人くらいのものだろう。
「発想の原点は……これだ」
教授は私に古い文庫本を投げてきた。古いものなのに相変わらず扱いが雑だ。小説の様だが……暗い部屋でタイトルがみずらい。
バゴンボの……?
「『バゴンボの嗅ぎタバコ入れ』その短編集の中に『恋に向いた夜』って話があった」
「面白いんですか?」
「SF作家だと聞いて読んだのに、その短編は恋愛小説で騙された気分になった。でも、研究としては興味深かった」
どう言う意味ですか?
「『恋に向いた夜』をかいつまんで説明すると、ある男が妻に詰め寄られるんだ。「昔、別な女と付き合ってたのを知ってるのよ」みたいな感じで」
あとで読んでみたが、この教授の説明は、とんでもなく掻い摘んでいて、「話の本編には何にも興味がなかったのではないか」と思えた。
「その後は、よくわからない言い合いが夫婦の間で続くんだよ。そしたら、男がその前に付き合っていた女と恋に落ちた夜のことを思い出すんだ」
「恋に落ちた夜?」
「そう。『その晩は満月で、その世界、空間自体がうっとりするほど幻想的だった。あんな世界にいたら、誰といても恋に落ちてしまう。あの晩はただ『恋に向いた夜』だっただけなんだ』って。
そう言った後、男は妻に『あれは夜が恋に落としただけ、僕が本当に恋に落ちたのは君だけだ』って説得する」
恋に向いた夜。良いムードっていう感じかな。
「それを読んだ瞬間に閃いたんだ」
そう言って、全てのコードをつなげ終えた教授は立ち上がり、机で隔たれていた私の方へ戻ってきた。
「恋に向いた夜。これはスピンパネルでも同じ現象は起きているんではないか? って」
教授は、パソコンの電源を入れた。スクリーンに表示されていたスピンパネルは一旦消え、次の瞬間、三方全てのスクリーンに満遍なく巨大なスピンパネルが誕生した。
妻と見に行ったイルミネーションの点灯式よりも迫力のある瞬間で、私はぞくっと震えた。
「まぁ、僕が閃いたのは『恋に向いた夜』の逆だけどね」
そんな幻想的な雰囲気に私が感動している横で、教授は冷静にパソコンを操作している。これでは『恋に向いた夜』が口に合わないのも納得だ。
「ピースは不規則に仮想上の街のスピンパネルを動いている。動くたびに前とは別人のピースと隣り合うわけだ。
この時、この隣り合っているもの同士の心というのは、精神的に近付き易い関係にあるんじゃないか? って」
「それじゃあ、街のあちこちで、恋が」
「いや、そうはならない」
「なぜですか?」
「一番大きな理由だけを説明すると、スピンパネルが特定のパネルと隣り合っている時間は数秒もない。数秒経てば、また別の人間の隣へとそれぞれ、動いてしまう」
そこまで知らされ、私は「そうか」と納得したが、教授は続けた。
「これを現実に戻せば。運命の出会いにふさわしい状態になっている二人がいても、その瞬間に隣の赤の他人に話しかける人はそういない」
「でも、これを知ってたら意図的に恋に落ちることができるわけですよね?」
「ナンパを嫌厭する人が多いのに、成功する確率が意外と高いこともこれで証明できる」
「大発見じゃないですか!」
「いや。これはすでに発見されている法則だよ。国の結婚斡旋所で君も使っただろ? 奥さんと結婚する時に。
あれは、相性のいい異性とタイミングよく会わせるためのもので、水面下でこの法則はすでに使われているんだ」
「じゃあ、発見っていうのは?」
「僕の発見は更に突っ込んだ研究だ」
そう言って、教授は私に微笑みかけた。
「ことの始まりは、僕が君と出会うよりも前に遡る」
そんな前から。もう、五年以上も前ということだ。
「当時、僕は一日中、このスクリーンのスピンパネルの動きを見続けていたんだ。
何か発見はないか? って。
するとね、数千組に一組……いや、もっと少ない。それぐらい少ない確率だ。
どんなに離れた場所にピースを配置しても、何回も何回も隣り合わせてしまうピースのペアというのが現れたんだよ」
「ペア?」
「普通、スピンパネルが一生で他のピースと隣あわせになる回数は一回か、多くても三回程度だ。
なのに、モニター上の法則をどれだけ変えても、街の端と端にピースを配置しても、何をしても二つのそのピースは惹かれ合うように隣り合ってしまうんだ。しかも、そのペアは全て男女」
教授はパソコンを操作して、スクリーン上の二人のピースにマークをつけた。
「僕はそのペアにとても興味が湧いてね。現実の街の人で、どうにか研究できないかって、ずっとあくせくしていたんだよ。
だけど、この街でその惹かれ合うピースを持つ男女の数は……わずか三組しかいない。数百万人が暮らすこの街でも、たったの六人だ」
「そんなテレビドラマみたいなカップルが現実に存在してるなんて」
教授の話を聞いて、とても結婚斡旋所で出会った私と妻とは縁のない事だと羨ましく感じた。
「そうしたら、ものすごい偶然が起きた。そのカップルのうちの一組の男性が私に電話をかけてきたんだよ」
「え?」
教授は私の顔を見て笑った。
その笑みを見て、私の心臓が自然に高鳴り始めた。
「『教授を取材させてくれ』ってね。どうやら彼はニュース配信社の新人の記者のようだった。
たどたどしい電話対応で、何が言いたいのか要点がハッキリしない喋りだったが、私はその瞬間、神に感謝をした。
取材なんか元々糞食らえだから、いつもなら怒鳴り散らして受話器を投げ捨てるけど、名前を聞いた瞬間に稲妻が走ったよ。『このチャンスを逃すわけにはいかない』と思って、もちろんOKだ!」
教授は話している間も、マークをつけたピースはドンドンと動きながら、近付いている。
「彼は人間的にもおおらかで優しい人物だった。ただ、難点なのは奥手で他人に積極的に話しかけられない点だった。
私は彼と仲良くなって、ちょうど彼の相棒の女性のピースが近づいている夜によく外へ連れ出した」
スポーツの観戦
教授とコンサートに行った帰りの電車
たまたま予約を取れたと言われて打ち合わせしたレストラン
「スピンパネル上で隣り合っている時、なぜか現実でもすぐ側にその相手がいる確率はかなり高いんだ。同じ精神状態を共有している可能性が高いからね」
「教授、それって……」
教授は私の質問に手を差し伸べ、握手を求めてきた。
マークをつけたピースはスピンパネル上で隣り合った。
その瞬間、教授はこのマークを付けたピースの持ち主の二人をスクリーンに表示した。
「君に決まってるだろ」
私と妻のデータが大きなスクリーンに映し出された。
「君は奥さんと『結婚斡旋所で出会った』と言ったが、笑いをこらえるのに必死だった。君と奥さんはそんなところに行く前から五十回以上も意識しあっていたのに」
私は呆然と自分と妻のスピンパネルを見続けていた。
「電車の隣の席、レストランの隣のテーブル、好きなスポーツチームが逆転した時、隣で応援した女性……君が僕に話した女性……ほとんど、君の奥さんさ」
「……」
一昨日の夜、思い出した妻との思い出がまた頭に流れてきた。
お前、本当にバカだな
よく考えろよ、喧嘩してるのに隣同士でテレビ見るかよ
お前みたいな無感動な奴と何回も映画行くかよ
「結婚斡旋所なんかに行かなくても、たとえ君が無人島で遭難したとしても、君らはどうせ引かれ合う。もう、運命でそう決まっている」
斡旋所の機械が選んだ? 本当にそれだけかよ
私は肩から崩れ落ちそうなのを必死でこらえながら、馬鹿な自分を問い詰めた。
「僕からの出産祝いだ。『運命を楽しめよ、親友』」
ポケットの私の携帯がなった。医者からだった。
「奥さんが産気づいて、入院しました」
「え?」
「それで、あの、同意書を早く持ってきていただきたいんです。出産が始まったら、効力が消えてしまいますので……」
「すぐに行きますので、妻と子供をお願いします」
もう認めろよ。これは不治の病だぜ……愛してるんだろ。
「え! あのっ……同意書」
私は医者の耳元で同意書を破いてやった。
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