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その6
電話があった日から、先生とは十日後の仕事終わりに会うことになった。すぐに会いたかったが、生憎お互いのスケジュールが合わなかった。
しかも、夜の七時なのに喫茶店なんかで待ち合わせをしてもらい、重ね重ね申し訳なかったが……「もし、妻が帰ってきていたら」と思うと、どうしても外で食事をとる気分になれない。
店に入ると先生はすでに隅の席でピザを頬張っていた。
くたびれた感じのスーツとチェックのシャツを着て、口にはケチャップ、白衣を着ていた時の貫禄が全く感じられず、少々残念な気分になった。
「こんばんわ」
私が挨拶をすると口にピザを入れたまま、モゴモゴと返事をしてきた。改めて向かい合うと、私と同じくらいの歳に見えるが、指輪はしておらず、まだ独身のようであった。
「いや、もう周りが女だらけの職場なんて、いつも誰かの視線を感じて落ち着きませんよ。彼女らの情報網は怖いですから、誰か一人と付き合うものなら有る事無い事、病院中に言い触らされて、プライバシーもあったもんじゃないんですよ」
先生は苦笑いを浮かべながら言った。そんなものか。
外から見ればハーレムだが、現実と理想はやはりどこでも違うようだ。
「まぁ、若い頃はこんな顔でも多少はモテましたよ」
医者はオレンジジュースをストローで飲みながら言った。平然と言われ、私は少し負けたような気分になった。
「ま、私もそのうちスピンパネルで手頃な『運命の人』を選んでもらいますよ」
「自分で選ばないんですか?」
「日頃から女の嫌なところを見過ぎて……正直、女はもうコリゴリです。結婚はしますが、運命の相手には別に何も期待してません。ストレスが溜まらなければ、それでいいぐらいですかね」
彼はまたそう言って苦笑いを浮かべた。
「昔の人々は『運命の人』って言葉を前向きな意味で使っていたんだよ」
彼の話を聞いて、教授がそう言っていたのを思い出した。
私も教授の影響で古典の恋愛小説を読んでみたことがあった。
確かに昔の人にとって『運命の人』と結ばれるかというのはかなり重要なテーマであったようだ。
意味も今と違って『生まれた時から結ばれることが決まっていた永遠の愛を誓い合う異性』というかなりロマンチックなニュアンスで使われていた。
私と妻は、国の結婚斡旋所で推薦されて出会った。
それまで私は女性と交際した経験がなく女性を選ぶ術をほぼ知らず、年齢も年齢で、スピンパネルのシミュレーションで良い関係が保たれると出た事で、彼女と2回目の面接で結婚に踏み切った。
別に妻に不満があるわけではない。
ただ、そんな出会いで結婚した妻を昔の人が言う『運命の人』かと聞かれると、流石に苦笑いしか出ない。そもそも私と永遠の愛を誓い合うなど、そんな異性がこの世に存在しているとは到底思えない。
所詮『運命の人』など、昔の人の作り話に過ぎないのだろう。
「それで、今日来ていただいた件なんですが」
先生はピザを食べ終え、手を拭きながら話し始めた。
私もハッとして、頭の中にあった不毛な想像を消した。
「これから話すことは医者からと言うよりは、私個人とご主人の会話ということにしていただきたいのですが……」
先生は改まった態度で言った。さっきまでの気の抜けた雰囲気から一変し、一瞬で診察室にいた頼もしい医者の雰囲気を身に纏ったようであった。
「正直に言って、私は奥さんのお腹のお子さんを摘出して、政府に預けていただきたいと思っています」
やはり。とは思ったが、私は顔に出さないように、返事もせず医者の話を聞いた。
「それでですね。ご主人にお願いがあるのです」
「お願い、ですか?」
と、先生はカバンから一枚の紙を取り出して、私の前へ置いた。
「これは?」
「同意書です。奥さんのお腹の子供をこちらに預けるという内容の」
「しかし……」
「ええ、分かっています。ご安心ください。今から説明します」
先生はそう言って座り直した。
「まず、事前に旦那さんから同意書にサインをしていただきます。その上で出産当日、奥さんには、『お腹の子を出産する』という表向きで手術室に入ってもらいます。そこで、我々がお腹の子を摘出し、奥さんの記憶も消してしまいます」
「しかし、妻の同意がとれなければ、記憶の消去はできないのでは?」
「『不治の病』の赤ん坊に関しては、旦那さんの同意だけで大丈夫です。
今回のように、身籠っている奥さんの方が冷静な判断ができなくなるケースは多いので、旦那さんだけの同意でこの記憶消去と赤ん坊を差し出すことは可能です」
私は先生の話を聞きながら、同意書の紙に目を落とした。確かに妻を説得するよりも効率はいい。
ただ、引っ掛かるやり方だ。
「ただ、これには一つだけ問題があります」
先生の声に、私は顔を上げた。
「問題、というのは?」
「奥さんと旦那さんが離婚をされてしまうと、同意書の効力が無くなってしまうということです」
離婚。
考えていなかったが、妻と別居しすでに一ヶ月近くになる。側から見ると、「そういうことも」考えなければいけない関係なのだろうか?
「しかし……それは私の一存では、むしろ、妻の方の気持ちの方が大きいと思います」
「はい。その通りです。ですから、旦那さんにお願いがあるんです」
「お願い?」
その時、何気なくコーヒーを口に運ぶと、さっきまで美味しいと思っていた味が何か金属が溶けた液体のような味に感じた。
「奥さんに『赤ん坊を育てる事に同意をしたフリ』をして仲直りをしていただいて、出産当日まで演技を続けていただきたいのです」
「え?」
もう一度、コーヒーを一口飲んだが、あまりに不味くて、とても飲めたものではなくテーブルの上に戻した。
「……妻を騙せと、言うことですか?」
「言い方が悪いですが、そう言うことになります」
「しかし、そんな……」
「本意では無いのは承知しています。ですが、ご安心ください。ご主人の記憶の方も我々が責任を持って消去いたします。お腹の赤ん坊の記憶も、騙していた記憶も一切残りません」
「ですが……記憶に残るとか、そう言う事ではなくて。妻にウソをつくなんて」
「嘘はつきます。ですが、それは一時的なものです。一ヶ月間だけ辛抱していただければ、全て無かったことになり、全てが解決しています」
医者に説得されても、すぐには返事を出来ず、その日は「考えさせてほしい」と言って喫茶店を後にした。
記憶が消えるとかそう言う問題では無い。
記憶が消えるから、と言う理由で妻を騙せるなら、そもそも結婚などしていない。
呆然と歩きながら、医者の言っていた言葉を反芻し、また腹が立ってきた。
が……その時、同じようなやり取りをどこかでしたような気がし、立ち止まった。
「あっ」
その時の映像が頭の中に鮮明に浮かび上がってきた。化粧の濃かった女のふかいな残り香まで思い出した。
『お腹の子の記憶は医者が責任を持って消してくれる。さっきの母親は何も覚えてなかったじゃないか!』
あの帰りの車の中で、私が妻に言った言葉であった。
それに気付いた時はもう手遅れだと悟り、全身から力が抜けていった。
あの時、知らぬ間に大切なものを失っていたことに今更やっと気付いた。そして、妻はきっともう家には戻ってこない。
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