その7

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その7

 玄関のドアを開けてもどこも灯りがついていない部屋、それを見てももう何も感じなくなっていた。  それ気付いたら、いつもより部屋の影が重く感じた。  ため息をつきながら、一つ一つの灯りをつけて先へ進む。こんなに疲れていただろうか。  夕食を食べていなかったが、何もする気が起きず、疲れに押しつぶされるように私はリビングのテーブルに突っ伏した。  このまま眠ってしまいたい。眠ろうと思えば眠れてしまう自由が虚しい。それから目を逸らすように必死で体を起こした。  きっと妻は実家にいるはずだ。義母は私に嘘をついて知らないフリをしていただけなんだろう。私に愛想を尽かし、帰らないと決めて出て行ったのだ。実家以外考えられない。  今度は背もたれに体を預けてボーッとしていると、色々と昔のことがぽつぽつと頭の中に浮かんでくる。  何かこの状況を解決する手掛かりはないだろうかと考える。 「そういえば」  思わずそう発した自分の声にびっくりして、ウトウトしていた状態から起き上がった。  妻と一度だけ、喧嘩になりかけた事があったのを思い出した。  一年前の妻の誕生日だった。  私は仕事終わりに妻が欲しがっていたプレゼントを買って、家に帰った。そして、夕飯後に妻に差し出した。  しかし、妻はなぜか不満げな顔を見せた。 「もう、持ってたかい?」と私が尋ねても、妻は首を振った。なら、なんで不満げなんだと、妻に尋ねると、 「それを言ったら、欲しく無くなるの」  そう言って口を尖らせている妻を、私は何を言っているのかがさっぱりで 「言わなきゃ、分からないだろ」  と、苦笑いを浮かべて言った。内心少しイライラしていた。が、言い返してくるかと思ったら、妻は「もういい」と呆れて、テレビのスイッチを入れてしまった。 ──あなたって、本当に理屈っぽい──  そう言って、盛り上がるはずの誕生日は、いつものようにテレビをただ並んで観るだけの時間に変わってしまった。  妻が出て行く前夜、言い合いになった時にも同じ事を言われた。  それから「なんて言うべきだったのか」をムスッとテレビを見ている彼女の隣で考えていたが、未だになんて言えばよかったのか、わからない。  言われてみれば、どうして私のパートナーに妻が選ばれたのだろう。  私は理屈っぽいだけでなく、神経質だ。  妻は感情的で、図太い性格をしている。  結婚当初はベッドを重ねて一緒の布団で寝ていたが、どこでも寝られる妻と寝る前の儀式を全て完璧にこなさないと眠れない私、すぐに妻の方がイライラして別々に寝ることになった。  食事をしていても、妻は一口食べるごとに食べ物の感想を発表するくらいの勢いで話し続けるが、私は黙々と食事をする。レストランで食事をした時「野生の動物じゃないのよ!」と無言で食べ続けていたのを怒られた事があった。  唯一、共通しているのが同じスポーツチームが好きな事くらいだが、私は冷静に試合を分析しながら観たいタイプなのに対し、妻はいちいちプレー毎に騒いで盛り上がる。  一緒に試合を見ていて、試合の流れから「もう逆転はないな」と諦めて本を読みだしたら、彼女にメガホンで思い切り頭を叩かれた。  妻は泣くために映画を観るが、私は仕事柄、どう感情を動かしてくるのか、作り手との駆け引きを楽しみながら観る。案の定、好きなシーンは面白いくらいに合わない。何度「二度とあなたと映画なんか観に来ない」と怒られたか。  思い出が蘇ってくれば来るほど、私と妻が運命の人だとはとても思えない。  病気があった時代は、結婚する前に伴侶とは別の異性と二、三人ほど交際するのが一般的だったらしい。  妻と出会う前にも、街中で知らない女性を「いいな」と思う事はあった。ただ交際は趣味ではなかったので、声をかけることはしなかった。と言うよりも、うまく声をかける方法を知らなかったのだが。  教授は交際に興味があるようであった。  教授に無理やり外に連れ出された時、「気になる女性がいた」と教授に報告する度に、何故かいつも目を輝かせて、私にマシンガンのような質問の雨を浴びせてきた。  そして、全てを話し終えると最後はいつも俯いてクスクスと笑うのだ。  スポーツ観戦の時、たまたま隣にいた女性。  電車でたまたま隣に座った女性。  レストランの時、隣のテーブルで談笑していた女性。  すれ違って行った女性の中に私の運命の人がいたのだろうか?  もし、あの時、何かのきっかけで彼女たちの誰か一人にでも声をかけていたら、私の人生は変わっていたのだろうか?  夢うつつにそんなことを考えていると、返事をするように突然、携帯が鳴り出した。私はパッと起き上がって表示に目を落としたが……妻ではなかった。 「もしもし、教授ですか?」 「しけた声だな。女房にでも逃げられたような声をしているぞ」  電話の向こうの男は、そう言って天井を突き破るくらいの大声で笑った。なんで、こんなにも勘が鋭いのか。 「どうした? 苦笑いもないってことは図星なのか? 出産が近いんじゃなかったのか?」  ちょうどいい。運命の専門家のこの人に相談をしてみよう。 「教授、あの実は……」  私は、これまでの経緯を教授に話した。  教授は茶々は入れて来ず、珍しく頷きながら私の話を最後まで聞いてくれた。 「ふーん。面白いねぇ」  話が全て終わると、教授はつまらなそうな声で言った。 「君の子供がねぇ」  と、教授は大きなため息をついた。 「教授、運命というものは今後の五年間で変えることは可能になるでしょうか?」 「人間は山を登ることはできても、山を動かすことはできないよ。君の足から頭頂部まで登ってきたノミが勝手に達成感を味わってても、君はなんとも思わんだろ?」  後半の例えは今の状況と関係あるのか? 「こちらからも一つ聞きたい事があるんだが……」 「なんでしょう?」 「君はその医者からもらった同意書をちゃんと破り捨てたのか?」  そう言われ、電話越しにのど輪を喰らったような気がした。 「……いえ、今、机の上にあります」 「私から言えることは一つだ。とっとと破り捨てろ。無理なら、燃やせ」 「ですが……最悪の場合、今の状況を全て解決する方法だとは思うのですが」  私がそう言うとまた大きなため息が帰ってきた。 「冷静な判断を下せてないのは、君だろ」 「え?」 「理屈っぽい君でもわかるように言っておく。君が神格化しているナノマシンでの記憶消去は万能ではない」 「どう言うことですか、記憶は消えないってことですか?」 「記憶は消える、表面的にはな。だが、ナノマシンを使ってシナプスの一部を通行止めにして、そちらにイオンが流れないようにするだけだ。記憶そのものは頭の中に残っている」 「つまり、何かの拍子にイオンがそちらに流れたら記憶が蘇る可能性が……」 「だから、冷静な判断を下せてないと言ってるんだ!」  突然、飛んできた受話器越しの大声に、私はビクッとした。 「今は記憶消去のメカニズムの話などどうでもいいだろ! だから君は理屈っぽいと言われるんだ! だから、奥さんは出て行った!」  あまりにも話が飛躍していくので、全く理解が追いつかない。 「どう言う、ことですか?」 「君は大事なものから目を背けていると言っているんだ! なんで今、君の目の前に家のテーブルがあるんだ!」  大事なもの? 家のテーブルって、だってここは家だぞ。  電話の向こうは突然、静かになった。 「明日。いや、明後日だ。準備がある。私の研究室に来なさい」 「え?」 「理屈っぽい君に教えてやる。君が患っている『不治の病』を。同意書は捨てろ、いいな! バカでもそれぐらいは出来るはずだ」  そう言って、電話は乱暴に切れた。
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