その9

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その9

 通された病室で、妻はすでに出産用の服に着替え、ベッドで横になっていた。彼女の隣には、もう赤ん坊用のベッドが準備してあった。 「久しぶり、だね」  私が部屋に入ると、彼女は子供を守ろうと無意識に両手でお腹を隠し、私に背を向けた。もう、彼女は母親になっている。あの時、車の中にいた時からそうだった。  私がずっと目を背けていただけだ。 「出産の書類に署名してきたよ、今。赤ん坊を渡すのは拒否した」 「えっ」  そういうと妻はやっと手をほどき、私に体を向けてくれた。最後に言い争いをした日よりも、お腹が膨らんでいる。  彼女の警戒が解けた瞬間、部屋の空気が緩んだ。警私はやっとベッドのそばの椅子に腰掛ることができた。 「いいの?」 「……どうせ、僕が何と言ったって、君は産むんだろ? だったら、育てるしかないじゃないか。赤ん坊を路頭に迷わせるわけにいかないだろ」  私がそう言って微笑むと、妻もフッ笑みを見せてくれた。 「あなたって、本当、理屈っぽい」 「それは、生まれつきだ。それぐらいは大目に見てくれよ」 「五年しか生きられないのよ?」 「ああ」 「死んだら、きっと、悲しいわよ」 「……だろうね。考えただけで、涙が堪えられなくなる」  妻もそれ以上は言葉にしなかった。  沈黙がしばらく、部屋に流れた。 「でも、しょうがないじゃないか」  私は喉を雑巾絞りするように、言葉をひねり出した。  妻がその声に顔を上げた。 「しょうがないんだよ。死ぬとわかってるなら、尚更。一人ぼっちになんてさせられないだろ?」  私はいつの間にか、妻のお腹の上で彼女の手を握っていた。 「愛してるんだから、君とお腹の子供を……どうしようもないないよ。これは不治の病だよ」  私も妻もお腹の子供の上で涙を流していた。  初めて 「え?」  妻が囁くように言った言葉。 「初めて言われた。あなたに『愛してる』なんて」  そう言うと妻は微笑みを私に返してくれた。 「ただ、子供を産む前に、条件がある」 「条件?」 「条件というよりは、提案だ」 「何?」 「運命を楽しむための提案だ」  僕の出した条件に妻は頷いてくれた。  しばらくすると看護師さんが妻の様子を見にやってきた。  私は部屋を出て、医者にその事をお願いに向かった。  それからの時間はあっという間に流れ、分娩室から産声が聞こえた頃には夜が明けて、朝になっていた。
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