その1

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その1

「出産の前は誰でも不安になるものだわ。でも奥さん、それは一時的なものだから安心して」  向かいに座っている化粧の濃い女に棒読みでそう言われ、私は苦笑いを浮かべた。というか、慣れない教師役を演じるのに必死な彼女のアドバイスなど、私はどうでもよかった。  大袈裟な相槌を打っている主人の傍で、私はずっと彼女の隣のオモチャで遊んでいる物体を獲物を狙うような視線で睨みつけていた。 「でも、その出産への不安が晴れるきっかけとかは、何かあったんでしょうか?」  主人も「きっかけ」と発した瞬間、化粧の濃い教師の横の物体へチラッと目を配った。  私達二人の視線を感じ、その物体はミニカーを持ちながら、能面みたいな顔を上げた。何も知らなければ物体の愛くるしい仕草に女性なら心を奪われてしまうであろう。 「そりゃ、生まれてきたこの子の姿を見れば、そんな不安なんか飛んで行きましたよ」  主人の目配せに反応し、化粧の濃い女は「よしきた!」と、自分の隣の物体を愛おしそうに抱きしめ、何かの世界チャンピオンにでもなったかのような満面の笑みを浮かべた。 ──知ってる? あんた、本当は人を一人殺してるのよ──  そう言ってやりたいぐらい憎たらしい顔だったが、規則があるため言うことはできない。 「やっぱり、子供が生まれると違うものですか?」  主人の質問に彼女は「そりゃそうよ!」と大声で答えた。全て主人の思い通りの答えを言わされているとも知らずに、自慢げに勝ち誇っているのが哀れでバカに見える。  今はデスクだが、元はニュース配信社の記者だった主人にすれば、こんな惚気た女から都合の良い言葉を引き出すなんて簡単だろう。  そうやって自分に有利な言葉だけを引き出して、頭の中で編集し、帰りの車の中で私を説得するときに使うのだ。  全てが主人の思い通りに動いている事に腹が立つ。  その上、能面みたいな顔を続けている物体を見ると腹わた煮え繰り返る。 『あんた、本当は生まれて来るハズじゃなかったのよ』  忌々しい物体にそう言ってやりたいが、それも法律違反だ。というか、私の性格ではそんな事を言って空気をぶち壊す勇気もない。 「奥様も、そんな憂鬱なんて気にしなくていいんですよ。今、何ヶ月ですか?」  突然、話を投げられて私は咄嗟に声を作ることに慌ててしまった。 「あ、い、今、八ヶ月、ですね」  私は自分の膨らんできたお腹を優しく撫でながら答えた。 「ならもう中絶もできないじゃない。出産が近付くと悩む気持ちも分かるけど、変な気を起こしたらダメよ。あなたのお腹にいる子は、間違いなくアナタたち二人に幸せを運んでくるんだから」  彼女は、そう言って「オホホホ」と得意げに笑った。  テーブルの下で握り続けていた拳がもう限界であった。 「アンタのアドバイスのせいで、私のお腹の子は殺されるかもしれないのよ」  私の口からその言葉が飛び出す寸前、主人が私の機嫌を察知して、このお茶会をお開きにした。 「本当に何も覚えていない様子だったな、彼女」  車に乗り込むや、主人はエンジンをかけるよりも先にそう言ってきた。もう、彼の中では『中絶』を私に納得させる材料は揃っているのだろう。 「子供も、幸せそうだったじゃないか」  穏やかな声を無視して、私は窓の外をずっと眺めた。「そうかしら?」という私の無言の返事に主人はため息をついた。  車内に私たちの体に付着したさっきの彼女の香水が広がり、気分がさらに悪くなる。 「僕だってそりゃ辛いさ。でも、お腹の子の記憶は医者が責任を持って消してくれる。さっきの母親だって何にも覚えてなかったじゃないか」  彼の言葉はいつも一直線に飛んでくる。  普段は気にならなかったが、喧嘩をしていると、この理屈っぽさが嫌になってくる。正解を言えばこっちが従うのが当然、と思い込んでいる。 「新しい赤ちゃんはすぐに人工授精してもらえる。良い遺伝子も優先的につけてもらえるし」 「ペットみたいに言わないでよ。ペットだって嫌よ、取り替えてもらうなんて」 「だから、記憶は消えるって言ってるだろ? それに赤ん坊は死なないよ。5歳まで国が大事に育ててくれる」 「目の前にいなかったら、死んだも同然でしょ!」  主人はまた大きなため息を漏らす。まるで私が正解が目の前にあることにすら気づいていない出来の悪い生徒みたいに。  行きはすんなりと来た道は渋滞にはまり、車は一向に進む気配がない。休日の夕方、家族連れの車に周りを囲まれているのが、窓の外から見えた、  本当に大事なものが見えていないのは、どっちなのよ。  私の窓から見える隣の車は、家族四人がしりとりをして盛り上がっているようだった。まるで渋滞が見えていない様に楽しそうだ。こっちの車内の空気と同じ成分とは思えない。  子供は3歳くらいと……5歳くらいだろうか。  きっと、かわいい盛りだ。 「あなたは記者をしてる時に現実を見過ぎたのよ」 「どう言う意味だい?」  敵意のない穏やかな主人の声。普段なら理解のある寛容な旦那と映るんだろうけど…… 「波風を立てない方法ばっかり無意識に考えてる。いっつもそう」  彼は何かを言おうとしたが、口が動いただけで止めた。すぐに反論すると言い合いになってしまうと解っているのだ。 「どうする事もできないじゃないか。医者も言ってただろ? 何をしてもお腹の子は……五歳で死んでしまうって」  そうじゃない、私が言いたいのは……   「君が悪いんじゃないよ」  なんで理屈で全てを解決しようとするの。もう少しで1+1が3になるのに。 「お腹を蹴られたの、昨日」  私は愛おしく自分のお腹をさすった。 「アナタにはまだ産まれてない存在かもしれないけど。私にはもう生きてる人間なの、この子は」 「不幸になるってわかっててもかい?」 「不幸になるのは私達二人でしょ。この子が不幸になるかなんて、誰にもわからないじゃない」 「五歳で死んじゃう子が、幸せなわけないだろ!」  彼が初めて怒鳴った。結婚してから初めて。 「事故なのか、病気なのか、わからないけど。五歳に死ぬ子が君は幸せだって思うのか!」  違う。そうじゃない。  私が言いたいのは……アナタに気づいて欲しいの。  私が言ってしまったら、もう二度と手に入らないの。 「記憶は消えるって言ってるだろ。なのに、なにが不満なんだ。しょうがないじゃないか……こればかりは」  彼はハンドルに顔を埋めて続けた。 「お腹の子は『不治の病』なんだから」  その声は、まるで世界で一番自分が不幸と言いたそうな声だった。
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