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第一連鎖 「ラストダンスハ私ニ」
頭の奥の方で微かに何かが聴こえた気がした…。
楽しかった夏休みは昨日で終わった。
だが本日、九月一日は日曜日。
一日だけでも夏休みが増えたのは、とても得した気分。
明日からは待ちに待った楽しい新学期。
宿題も全て終えて準備万端。
早く友達と夏休み中の想い出話がしたかった。
ただ天気が悪くなりそうで、それだけが心配。
そんな事を考えていたら、ふと何かが聴こえた気がした。
台風が近付いていて風音が強くなってきている中で。
ほんの微かに…微かだが確かに聴こえた。
何だろう…何処から聴こえたんだろう?
それは短い音楽のリフレイン。
自分の生活圏では聴いた事の無い音楽だった。
なのに妙に印象に残る。
メロディが頭の中でリピートされていた。
何故か不思議と心に引っ掛かる。
かつて聴いた記憶が無いのだが既視感すら感じた。
だが見回してみてもテレビもステレオも黙ったままである。
じゃあ何処から聴こえているんだろう?
彼は耳を澄ましてみた…澄ましてみてしまったのだ…。
窓の外には台風が近付いている。
耳に入ってくるのは台風が近付いている足音。
…ごうごう、…ごうごう。
風が唸り始めている。
そんな風音の中から確かに何かが聴こえている。
ずっと…、ずっと…。
呼び出し音?
誰かのスマホの落とし物?
だが彼の部屋は2階であった。
いくら何でも、とても音が届くとは思えない。
ましてや、こんな強風の屋外からなんて。
それでなくても先ほど少し不気味な錯覚を見た気もしていた。
その事も思い出し彼は少し怖気づいていたのだ。
それは大好きな漫画を読んでいた時の事。
彼の部屋の遮光カーテンの向こうに、ふと人影の様な物を感じたばかり。
それはユラユラと、まるで重さが無い様に移動していった。
…ゆらり、…ゆらり。
住居は団地の2階で1階が商店街になっている。
その為、店舗の屋根代わりに少し突出した造りになっている。
ベランダの向こうに人が歩けるスペースは充分に在る。
早朝に、よく鳥が集まって鳴き声で起こされる事も在るのだ。
だが、それにしても…。
何か不思議と嫌な予感がしていた。
台風がもたらしている荒天のせいだけだろうか。
どうも、それだけではない様な気もする。
そう思いながら彼は窓を開いて耳を澄ましてみた。
風が部屋の中に流れ込んできた。
遮光カーテンが踊り上がってしまう。
それでも構わず彼は窓の外を見回してみた。
そして耳を澄ましてみたのだ。
窓の外は団地に囲まれた小さな公園である。
公園と言っても殆ど団地の住人しか利用しない程度の小さなもの。
周囲には僅かに木々が植えられていて、それがベランダを隠してもいる。
その揺れが台風が近付いている事を如実に報せていた。
風の唸りの中、確かに小さく音が聴こえ続けている。
こんな事が在るのだろうか…。
彼は何故か、その音が凄く気になって仕方が無い。
いっその事、音の主を探そうと思った。
台風が近付いている様だが、まだ雨は降り始めてはいない。
探すなら今の内だろう。
決心した彼はドアを開けて風の強くなってきた外に出てみた。
出てしまったのだ…。
1階のエレベーターホールから外に出た。
彼と入れ違いに風が流れ込んでくる。
夜の匂い、そして夜の暗さを連れて。
外は不穏な雰囲気で満ちていた。
強風も、それに拍車を掛けている。
もう商店街は閉まっている時間なので街灯の明かりだけが頼り。
彼は音を探して歩いていった。
自分の部屋の真下ら辺に立ち止まってみる。
風の強さが増していて音が捕まえられない。
…ごうごう、…ごうごう。
周囲を見回してみた。
もちろん公園のベンチにも誰も居ないし忘れ物も見当たらない。
呼び出し音が止まったのかも知れない、それとも気のせい?
木々の揺れが激しさを増していて少し怖くなってきていた。
台風が近付いているのは確かだろう。
だが、それより恐ろしい事が近付いている様な気がしていた。
部屋に戻って笑えるアニメでも見て気分転換しよう。
そう思ってエレベーターホールに向かおうと振り返った。
その時である。
頭の奥の方で微かに何かが聴こえた気がした…。
「…待ッテ。」
全ての風の音が、その一瞬だけ止んだみたいに。
自分自身の心臓の音が、その一瞬だけ止んだみたいに。
彼の心の何処かで、その言葉は繰り返された。
「待って…?」
それは微かに聴こえ続けていた音とは違う。
明らかに人の言葉にしか聞こえなかった。
ただ、その声は聞いた事が無い様な感触の声でもあった。
例えるなら、まるで水の中から話し掛けられている声とでも言おうか。
耳元で聞こえている筈なのに凄く遠くから囁かれている様な。
ハッキリと判るのに物凄く濁っている様な。
そんな声に囁かれたのである。
瞬時に彼は完全に混乱していた。
「待つ…誰を待つの?」
学校では無口な方の彼も思わず呟いていた。
その時、再び風が止んだ様な気がしていた。
何故なら、あの音が再び聴こえ始めたからである。
微かに…微かに…。
もう気のせいではない。
その事を彼は確信していた。
微かながらハッキリと聴こえる音に向かって歩く。
「待つ…?」
やはり彼の部屋の真下周辺に戻ってみる。
音の輪郭が一番はっきり聴こえるのは此処。
街路樹で自分の部屋は見上げられない。
その時である。
…ぼたり。
何かが強風の中から落ちてきた。
彼から、ほんの近くの土の上に。
驚いた彼は、もはや酷く動揺していた。
足許が微かに震え始めていたのである。
それでも街路樹の足許に落ちてきた物を、彼は見付けにいった。
「携帯…?」
簡単に通話が出来るタイプの携帯電話であった。
子供が親から持たされるタイプの携帯電話。
彼が聴き続け探していた音が、そこから鳴っていた。
着信音。
「何だ…忘れ物だったのか。」
そこで彼はホッとして呟いた。
身体中から力が抜けていくのを感じる。
「でも何処から落ちてきたんだ…?」
彼は急速に安心してしまった、もう既に不安も消えていた。
掛けてきているであろう落とし主に返そうと通話ボタンを押した。
押してしまったのだ…。
予想に反してヒステリックな笑い声が響いてきた。
通話口から聞こえてきた、その相手の声は悪意でしかない。
見えてもいない彼を罵倒し、そして嘲笑し続けていた。
「何だよ…死ぬんじゃねえのかよ!」
彼は驚いて返事も出来ずに固まった。
返事が無いので、その罵倒は勢いを増して続いていった。
「やっぱり口だけだな、お前はよ!」
それは持ち主でも家族や友人からでもない。
人間の音声に象られた悪意。
「明日から新学期だから楽しみにしてろよ!」
電話の持ち主に対しての聞くに堪えない罵詈雑言。
同級生からの様だった、おそらくイジメをしている奴だろう。
彼が黙ったまま返事をしていないので、ずっと言い続けていた。
彼を携帯の持ち主だと勘違いしたまま。
「夏休み分の金も、ちゃんと持ってこいよ!」
学生の分際で恐喝まがいの事までしているのか。
彼は気分が悪くなり通話を切った。
着信履歴で相手の名前を確認して覚えておいた。
持ち主の両親や学校に報せよう、こんなの許していい訳が無い。
携帯なら持ち主は直ぐに判るだろう。
彼は早く届けておこうと交番に向かって歩き始めた。
彼の怒りの感情と同期する様に、また風が一段と強くなってきていた。
その時である。
彼の額に水滴が落ちて来た。
…ぽたり。
「雨…?」
早く交番に届けて帰ろうと額を拭った。
その手の平が赤く染まっている。
彼は慌てて顔中を拭ってみた。
真っ赤になった手の平を見て理解出来ずに固まってしまった。
「血…?」
彼は強風の隙間から空を見上げてみた。
風は相変わらず強いままだが、まだ雨は降っていない。
そもそも彼を濡らしているのは雨ではなかったのだが。
「何で…何処から?」
何が何だか全く理解出来なかった。
パニックになりかけながら見上げ続けた木々の隙間。
彼は見た…見てしまったのだ。
その少年は強風に揺られていた。
まるで街路樹にぶら下がっている様に見える。
風が吹く度に、くるくると廻っている。
くるくる…、くるくる…。
それは、たった独りで踊り続ける死のダンス。
そして今や動けずに見続けている彼が、たった独りの観客となった。
地獄の舞台と、その最前列。
どの位の間、見続けていたのか彼自身にも判らない。
一瞬だったかも知れないし永遠だったのかも知れない。
もう何を、どう考えれば良いのか彼にも判らなくなっていた。
その時、強風が一段と強くなった。
彼の回転も風の強さに比例して激しさを増した。
…ばちり。
伸び過ぎたゴムが切れた様な音が響いた。
と同時に頭上で死のダンスを踊っていた少年が降りてきた。
不器用に回転しながら不格好に着地した。
腕や足が、それぞれ違う方向を指している。
「…!」
もう彼は驚く事も出来なくなっていた。
彼は思考停止したまま、その少年に近付いていった。
だが少年の表情は判らなかった。
近付いても…近付いても…。
何故なら、その少年には頭部が無かったからである。
彼は胸から込み上げてきたものを辛うじて押し戻した。
そして少年がダンスしていた街路樹を見上げた。
強風の強さは増して木々の揺れはヒステリックになっていく。
それと同時に、その少年の頭部が降りてきた。
ころころ…、ころころ…。
公園の芝生の上を少し転がり、そして止まった。
その顔は、こちらを向いていた。
彼は少年と目が合った…合ってしまったのだ…。
少年の額には酷い傷が在った。
まだ血の跡が濡れている。
それは人名であった、とある人名を自分の額に彫っていた。
ただ左右が逆に彫られている。
鏡を見ながら自分で彫ったのであろう。
…どれ程の憎しみか想像もつかない。
…どれ程の痛みか想像もつかない。
その血で彩られた名前に彼は見覚えが在った。
「さっきの奴か!」
彼は唸り声を上げてしまった。
先刻、少年の携帯に罵詈雑言を浴びせた名前だった。
その名前を彫った傷跡から溢れた血。
額を伝わり目元まで流れ落ち、まるで血の涙の様に見える。
頭部だけとなった少年の表情は笑いながら泣いていた。
風で飛ばされた、その血飛沫が彼の足を止めた。
そして少年を見付ける事になったのである。
彼は思考停止から恐怖を跳び超えて怒り心頭であった。
変わり果てた少年の表情だが、その顔に見覚えが在った。
おそらく家族とは顔見知り程度ではある。
少年とも廊下で挨拶ぐらいはしているかも知れない。
その少年の額に彫られた相手を決して許してはおけない。
許せる筈も無いし…許してはいけない。
許さない。
まるで彼は何かに取り憑かれた様に行動していた。
意識の奥底で、この少年の望みを叶えよう…と。
先ず彼は少年の携帯を拾って頭部に近付いていった。
カメラのアプリを起動する。
そして額に彫られた名前が見える様にレンズを除く。
彼は少年の頭部に話しかけながらシャッターを押した。
「思う存分、呪ってやるんだ!」
彼は写真を確認して保存した。
次に先刻まで見事な死のダンスを踊っていた胴体に近付いた。
再び携帯のカメラで首の切断部分をアップで撮影した。
余りの光景に彼は吐きそうになってしまった。
だが後から見る奴は、もっと苦しむだろう。
彼は胴体の写真も保存。
イジメていた奴の名前のメールに両方を添付した。
「一生、苦しむがいい!」
彼は奴にメールを送信した。
…暫くベンチで放心状態で泣いていた彼だが、やっと正気が戻ってきた。
警察に電話して現場検証に立ち会わねばなるまい。
少年の家族の気持ちを思うと逃げ出したいのだが。
もちろん少年の携帯の履歴は消去しておいた。
少年の写真も、あの奴に送ったメールも。
これで少しは成仏して貰えるだろうか…。
そんな事を思っている時に聴き慣れた着信音が鳴る。
彼は跳び上がるぐらい驚いた。
彼が少年を探すキッカケになった、あの音楽だったのだから。
彼は再び少年の携帯を手に取った。
発信者の名前を見た。
相手は、あのイジメていた奴である。
写真の中の少年の呪いは届いているのだろうか?
彼は通話ボタンを押す。
半分パニックになりながらの大声が通話口がら流れ出た。
「てめえ、こんな偽物の写真でビビると思うなよ!」
まだ正気の体裁を保っている様だが、もはや風前の灯の様だ。
明らかに声が震えていて早口で呂律が廻っていない。
「明日、学校で殺してやるからな!」
そして続けて出て来た言葉は、もはや意味不明になっていった。
それは処分される直前の家畜の悲鳴の様でもある。
恐怖の感情が理性を超えてしまったのだろう。
通話を切りながら彼は呟いた。
「もう死んでるんだよ…。」
彼は今度こそ降り始めた本物の雨に顔を濡らしながら思った。
これなら血も涙の跡も消える。
警察に行って一部始終を話さなきゃならないな…。
彼は交番に向かって歩き始めた。
その時である。
頭の奥の方で微かに何かが聞こえた気がした…。
「…アリガトウ。」
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