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『諸般の事情により、当面の間、全作品を非公開とさせていただきます』
僕は小説投稿サイト、『セレクショングッド』で小説を投稿している。有名なA出版社さんから、メールで書籍化を検討したい、と連絡があった。
小説を投稿して七年。やっと、私の作品が出版社さんの目に留まったのだ。
メールには出版社の代表電話番号と内線番号が書かれていた。念のため、出版社の公式ホームページで、代表電話番号を調べるが、ホンモノの番号だ。
震える手で朝、自宅で受話器を取り、プッシュホンの番号を押す。受話器越しに、くぐもった声がした。
「もしもし、村田です」
「A出版さまでしょうか?」
「いえ、違います」
「間違えましたすみません」
気が張り過ぎて、電話番号を押し間違えてしまった。受話器を一度切ってから、紙にメモしたA出版の電話番号を指で押す。
「おはようございます。株式会社A出版でございます」
「おはようございます。『セレクショングッド』経由で書籍化のお話をいただいた、松村と申します。文芸部の坂本さまをお願いします」
緊張して、声が掠れる。事前に教えてもらった、内線番号を言い忘れてしまった。
「松村さま。文芸部におつなぎしますので、少々お待ちください」
僕の耳には、オルゴールの音が流れる。男性の声がした!
「おはようございます。文芸部の坂本です。松村太先生……」
先生と呼ばれれ、感涙した。今までは、小学生から仲良しの友人。T君から、冗談で“先生”と呼ばれただけだ。
「どうか、私のことは『先生』と呼ばないでください」
「分かりました。早速本題に移りたいのですが。松村さんが『セレクショングッド』さんで投稿してる『果樹園の流れ弾』を、弊社で出版させて欲しいんです」
「ありがとうございます、ありがとうございます」
僕は電話機の前で、両膝を突き、頭を下げ続けていた。
***
あっという間の三か月だった。担当編集者になった坂本さんと何度も打ち合わせがある。何度も原稿の手直しをした。
『果樹園の流れ弾』の発売日が決定した。
印刷された『果樹園の流れ弾』の文庫本が五冊もらえた。
仏壇に並べて五冊とも飾る。小説を書き始めた頃、母が太の小説、どうして本にならないの? とか、応援してくれた。
小説投稿サイト『セレクショングッド』では、ランキングで上位になったり、面白いと感想を書いてくださる方々がいて、天にも昇る心地良さだった。
応援してくださる、読者さまのお陰でモチベーションを保てて、小説を書けたのだ。
三か月振りに、自宅のパソコンで『セレクショングッド』を見た。
〈松村さんがの作品がなくなった〉
〈最近、松村さんからの感想がない〉
『セレクショングッド』で仲良しだった方々が、心配してくださっていた。
A出版社の担当編集、坂本さんから、発売日まで、ほかの作品も、非公開にするようお願いされたのだ。
僕は今度、『果樹園の流れ弾』の書籍化のお知らせを書く。
『果樹園の流れ弾』の番外編を、『セレクショングッド』の皆さまへのお礼として投稿した。
多くの方から、祝福のコメントをいただいて、目頭が熱い。
A出版の坂本さんにも、感謝の言葉もないが、どうしても気になったことがあり、電話した。
「坂本って、昔、D出版さんで編集者をしてませんでしたか?」
「バレましたか。D出版から転職しました」
大笑いしている。忘れもしない。僕が『セレクショングッド』で短編小説作品を投稿し始めた、七年前のことだ。
書籍化のお話をくださったのだが、D出版さんだ。担当の坂本さんは良くある名字で、メールでのやり取りだった。
僕の作品に、過激なお色気場面を増やすなら、デビューと言われた。
一週間ぐらい悩んだ末、丁重に書籍化の話はお断りした。お色気はちょっと。母の意見も大きかった。その母も今は天国に旅立ってしまった。
仏前で線香の煙が漂うなか、スーパーで買ってきたイチゴプリンをお供えする。
「やっと、デビューできたよ」
遺影のなかで母の写真は、とても穏やかに見える。子供の頃、母は果物を使ったお菓子を良く作ってくれた。
まずかったのもあれば、おいしかったのもある。家に遊びに来た友人の福井君から、好評だったのは、オレンジのババロアだ。
僕はおいしくなかった記憶があるが、福井君が遊びに来る度に、作っていた。
母はレシピは自分の頭で覚えている人だった。母が亡くなる前にレシピを教えてもらえば良かった、と今では思っている。
僕の現代ファンタジー作品。『果樹園の流れ弾』は、小さな果樹園の管理人が主人公だ。
誰かが果樹園を訪ねて行く。管理人が、記憶にある果物のお菓子のレシピを、多くの人に無料で教えてくれるのだ。
母は喫茶店めぐりが趣味だった。
果樹園の管理人の正体。それは、果樹園をしながら、インターネットで料理レシピコミュニティサイトの管理人をしている。
この前、福井君の奥さんが、喫茶店を始めて、メニューに“オレンジのババロア”があり、元気だった頃の母から、レシピを教わったそうだ。
母の葬儀に福井君と奥さんが、参列してくれたのを思い出す。
担当編集者の坂本さんからは、果樹園の管理人が、どうしてレシピを知っているかは、謎のまま終わらせるように説得された。
果樹園の管理人は、亡くなった母がモデルだ。母も許してくれるだろう、と応じた。(完)
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