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階段を駆け上って二階の一番奥。扉が開いたままの美術室が見えた。中を覗き込むと、二年が修学旅行で不在のためか、部員は数名しかいない。
「あの……」
入り口付近でデッサン中の三年生に声をかける。名前は知らないが、見たことのある顔だった。
「あ、仁科さんだ!」
「え、何で……」
三つ編みヘアの彼女はなぜか私の顔を見るなり名前を言い当てた。話した事もないのに。なぜだろうか。
「朔羅ちゃんのことでしょ? 入って!」
「あ、うん。お邪魔します……」
促されるまま室内に入ると、油絵の顔料特有の匂いが漂っていて、「青空パレット」の絵を思い起こす。
「朔羅ちゃんってね、風景画の天才って呼ばれてるの知ってる?」
三つ編みヘアの女の子が、歩きながらふわりとした笑顔をこちらに向ける。
「あ、そういえば……さっき、掲示板の前で誰かが言ってたかなぁ」
「うん、入賞してたもんね。実は朔羅ちゃんってね、風景しか描かないの。絶対人はモデルにしないんだって、昔からこだわりがあるみたいで」
「それって……」
私と同じだ。
でも何で? あんなに上手なのに。
「人の表情も、気持ちも、全部消耗品なんだって」
「消耗品?」
「うん。喜びも悲しみも、その一瞬はあっという間に過去になる。いくらその瞬間を切り取って描いたつもりでも、描き終わった頃には、もう劣化しちゃうから嫌なんだって」
そんなに熱い思いを、一枚の絵に込めようとしてるなんて。私が人を撮らない理由とは、次元が違うようで恥ずかしくなる。
三つ編みヘアの女の子が、窓際に立てかけられた布で包まれたものを、手近にあったイーゼルに乗せた。
「でもね、これは特別なんだって。自分が満足するためじゃなく、初めて誰かの為に描いた絵なんだって」
白い布がパサッと音を立てて落ちた。
その下に現れたのは一枚の油絵。
瑠璃色の空。見飽きた顔。
その絵の中で、
──「空色 Letter」 井上 朔羅──
私が笑ってた。
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