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競走馬と猫
僕の名前はアウグラ。
滋賀県栗東市にある草ヶ部厩舎で調教師の草ヶ部昌吾先生や、厩務員のみんなにお世話になっている三歳の競走馬だ。
ちなみに競走馬っていうのは、僕みたいな競走馬を他にも数頭ほど集めて、それぞれ背中に騎手っていうお仕事の人間を乗せて競馬と呼ばれている名前の競争をすること。
そして、競走馬を鍛えて強くするのが調教師の先生のお仕事なんだ。厩務員のみんなのお仕事は僕たち競走馬にご飯をくれたり、僕たちが生活する馬房の掃除、ふかふかの寝わらを敷いてくれたりする。他にも僕らが走ったりして汚れた体を洗ったり、ブラッシングして気持ちよくしてくれる。
僕は生まれたときから走るのは得意だったし、競馬で他の競走馬に勝つと嬉しいし、負けると悔しいし、悲しい。
それは、僕の専属騎手のセバスチャン、草ヶ部先生、厩務員のみんなも同じように僕と一緒に喜んだり悲しんだりしてくれる。
セバスチャンはイギリスっていう、ここから遠く離れたところに住んでいたけど、日本の競馬が好きで、たくさんたくさん勉強して、努力して日本の騎手としてちゃんと認められたんだって。セバスチャンの奥さんと子供はイギリスにいるままなんだって。こっちに呼べばいいのに。
おかげで僕も大好きなセバスチャンと一緒に広い競馬場を走れる。そのことが凄く嬉しい。僕は優しいセバスチャンが大好きだし、あんまり知らない人を背中に乗せて走りたくなかったりもする。
でも、僕がセバスチャン以上に大好きで、安心して背中に乗せることができる一番の親友がいる。僕は眠たくなったら寝わらで寝るけど、小さな彼のお気に入りの寝床はもっぱら僕の背中だ。ちょうど起きたところみたい。
「……ふわぁぁ、おはよう、アウグラ」
「おはよう、リベルタ。よく眠れたかい?」
「ああ、今日は天気もいいしな」
そう言いながら相音も立てずに僕の足元へと飛び降りたリベルタは、あくびをしながら両方の前足をこれでもかと前方に伸ばし、お尻を天井の方へ向かって突き出して、見ている僕からしても、それはそれはとても気持ちよさそうな背伸ばしをしている。
リベルタは僕と同じ三歳で、生まれたときからずっと一緒にこの草ヶ部厩舎で過ごしている。
僕が体の大きい競走馬で、リベルタは体のとても小さい猫だけれど、僕たちはお互いを一番の親友だと思っている。
僕がお母さんのお腹の中から生まれてくる少し前から、リベルタは草ヶ部厩舎で過ごしている。
厩務員のみんなが話している会話を聞くと、どうやら僕はなかなかの難産だったらしい。お母さんのお腹の中での体制が前足だけ伸ばしてあとの体が全部丸まった体制で、それは凄く歪な姿勢だったのだという。
それでもお産をしてくれた厩務員さんがお母さんと僕に向かって「がんばれ、がんばれ」と、声を掛け続けてくれたみたい。
生まれてくる前のことだから、記憶にはないし、厩務員さんが猫の言葉が分からないものだから、何とも言えないけど、リベルタも厩務員さん曰く、心配そうにずっと、僕がちゃんと無事に生まれるまで「にゃー、にゃー」と、お母さんと僕に向けて鳴いていたらしい。それは自分たち厩務員と同じように頑張って生まれてこいよ、という風に感じたのだと。
お母さんは僕を生んでから間もなく、亡くなってしまった。ごめんなさいお母さん。お腹の中で変な体勢でいてごめんなさい。僕は生まれてから今日までの三年間、ずっとお母さんにもうしわけなく思い、こうやってたまに心のなかでお母さんに謝り続けている。
でも、謝るのと同時に僕は、僕を生んでくれたお母さんに本当に感謝している。僕がこうやって優しい草ヶ部先生、厩務員のみんなによくしてもらい、これでも一人前の一頭の競走馬として、元気に生きていけているのはお母さんのおかげだ。
リベルタっていう小さな親友とも出会えたしね。
僕が物心つくころには既にリベルタが僕の背中に飛び乗るのは当たり前になっていた。小さいな頃からお互い一緒にいろんなところを散歩して出歩いた。僕たちの寝床、馬房に戻ってからも一緒にいろんな話をした。
僕とリベルタはいつも一緒だった。僕が競馬で出走するときにも草ヶ部先生の大きな鞄のようなものに入って僕が勝てるように応援してくれる。もちろん、このときばかりは背中に乗せて一緒に走ったりはできないけどね。競馬のときの背中はセバスチャンだ。
「そういえばアウグラ、草ヶ部のおっさんが言ってたけど来週は何か大きな競争があるんだって?」
「うん、ダービーっていって、生涯に一度しか出れない由緒正しき競争なんだ。僕がこれまで走ってきたのも、この競争を勝つためなんだって、草ヶ部先生は言ってた」
「へえ、じゃあそこでアウグラが勝ったら、アウグラが一番強い競走馬ってことになるんだ?」
「うん、僕たちの世代、三歳の競走馬の間ではそういう認識をされることもあるみたい。もちろん短い距離の競争が得意な馬、長い距離を走るのが得意な馬、みんなそれぞれだし、競争の種類もたくさんあるから一概には言えないけどね」
「なんだか、ややこしいよな競馬ってやつも。走ってる最中に柵や水たまりを飛んで避けながら走る競争とかもあるしな」
「僕はああいう競争は出てないけど、大変だなと思う。走りながら飛ぶって怖いしね。たまに飛ぶのに失敗して転倒する馬とか見てると自分じゃないのに心配になるよ」
「まあ、いいじゃないか、なんだかんだでアウグラは走る才能があるし、いままでだって順調だっただろ? おかげでその、ダービーだっけか? 大きな競争に出れるんだろ」
「緊張するよね……そんな大きな競争って、生まれて初めてだからさ」
僕を立派な競走馬に育ててくれた草ヶ部先生。先生の目標がこのダービーであること。また、同じように僕のことをいつも応援してくれる厩舎のみんな。
そして、僕の一番の応援団長、小さな猫の親友のリベルタ。
彼らの期待が僕の背中に重くのしかかる……。
「なんか不安でお腹が痛くなりそうだよリベルタ……」
「ばーか、難しいこと考えないで、いつもみたいに素直に、自分らしく走ればいいんだよ。お前は草ヶ部のおっさんとの鍛錬だって毎回怠けず真面目にしてんだからさ。もっと自分と草ヶ部のおっさんを信じてみればいいんじゃねえか?」
「……そうだね、ありがとうリベルタ。がんばってみるよ僕」
「おぅ、がんばれよ、アウグラ……」
そう言って、彼は馬房の出口へと歩いていった。
去り際の背中がいつもと違って、どことなく寂しそうに感じたのは僕の気のせいなのだろうか……。
†
――それから一週間。
今日は先生を筆頭に草ヶ部厩舎のみんなの悲願、ダービーの開催当日だ。
既に競馬場には十八万人以上の沢山の人が「今か、今か」と出走を待ちわびている。
ダービーの出走時刻は午後三時四〇分。
僕は今、厩務員の田中くんにひかれて競馬場内のパドックを周回している。
パドックというのは、次に出走する馬が自分の所の厩務員さんにひかれながら、ぐるぐると、ゆっくり歩いて周回するんだ。何周かね。
その歩き方とか、僕たちの気分が次の出走に向けて乗っているのか、乗っていないのか、雨が降っている日だったら、その子が雨を嫌がる子なのか、喜んではしゃぐような子なのか、競馬場に来た人間が、いろいろな見方をして、どの馬が次の出走で勝つのかを予想するのに参考する場所なんだ。
人間は僕たちの言葉が分からないから、見たままの雰囲気で判断するしかない。さすがに自分のところの厩務員さんとか、調教師の先生とか、専属の騎手とか、他にも馬の接し方に慣れている人とかは、話さなくてもその辺の人たちよりかは僕たちの気持ちを察してくれる。
そろそろパドックの周回が終わりだ。セバスチャンや、他の馬の騎手がこぞって出てきた。
「やあ、アウグラ。元気そうで良かった。競馬場の観客の多さにもそろそろ慣れたかな?」
そう言いながら、背に乗ったセバスチャンが僕の首を優しく撫でる。
慣れたといえば慣れたかもだけど、さすがにこれだけの人がいるのは初めての経験だから緊張するよ、セバスチャン……。
「よし、じゃあ行こうか、アウグラ」
ダービーの出走に向けて、いよいよ僕とセバスチャンは舞台の本馬場に向けて地下馬道を通っていく。
地下馬道の通り道に草ヶ部先生がいた。紺色のハット帽と色にジャケット、綺麗な水色のシャツに赤いネクタイを締めている。白くて幅の大きいスラックスをはいて、普段とは違うこの日に向けた意気込みが僕にまで伝わってくるようだ。
先生、いつもだったら適当なジャケットにポロシャツが定番スタイルだもの……。
「……やっと、この日が迎えられたよ、アウグラ。お前は俺が初めて自信を持ってダービーに送り出せる自慢の競走馬だ。今までの調教も、決してお前にとっては楽なものじゃなかっただろうけど、すべてはこの日のため……」
先生は優しい目を細めて、何かを懐かしむようにしている。
「このダービーを勝てれば、お前は晴れてこの世代でただ唯一のダービー馬の称号を手に入れることができる。その称号はたとえこれから何年経とうと歴史から忘れ去られることがない名誉だ」
先生がこれから出走する僕を気遣うように右の頬を撫でてくれる。
「アウグラが勝てば、僕も晴れてダービージョッキーですからね、先生」
まだ走ってないのに、勝った気になったセバスチャンが少し笑える。いい意味で毒というか、緊張を抜いてもらったかも。
「そうだな、セバスチャンも、アウグラのこと、よろしく頼んだぞ」
「はい、先生」
そのとき、僕の背中に誰かが乗った。僕にとってその誰かは明白だ。
「遂にここまできたな、アウグラ。俺もいつも以上にお前のこと、おっさんらと一緒に応援してるからよ」
「うん、ありがとう、リベルタ」
僕の小さな生まれたときからの親友、猫のリベルタ。
さあ、頑張らなきゃ。みんなにこれだけ応援してもらってるんだもの。みんなに喜んでもらうためにも、僕はダービー馬になってみせる。
「じゃあ、行ってくるね、リベルタ」
「おぅ! 行ってこい、未来のダービー馬」
僕とセバスチャンは地下馬道をそのまま通り抜け、本馬場に入場する。そこで軽く走って出走直前に馬たちが集まる待機所へと向かう。
……ダービー出走まで残り五分。
†
――地鳴りが聞こえる。
競馬場に集まった十八万人以上の観客がこぞって新聞を丸め、それをバンッバンッと、音を叩いて鳴らしている。十八万人以上の人間が一斉に新聞を叩くと地鳴りみたいに聞こえるのもダービーならではの経験かもしれない……。
ほどなくして、競馬実況者の声が競馬場全体に響き渡る。
「さあ、待ちに待った本日はダービー! 馬主、調教師、騎手、すべての競馬に携わる競馬人が、一生に一度は勝ってみたいと願い、夢を見るこのレース! 一国の宰相になることよりも難しいと言われるほどの大レース! スピード、スタミナ、そして強い運がなければダービー馬にはなれません。このダービーに勝てば文句なしに世代の頂点の競走馬! その栄光を手にせんと、今年も十八頭の競走馬たちが集いました! さあ、競馬の最高峰、ダービー! 遂に発送です!」
実況者が話し終えるのと同時に、今まで以上の地鳴り――歓声が聞こえてくる。
いよいよだ……。
僕を含めたダービーに出走する馬たちが、ゲートへと向かう。
出走時刻は午後三時四〇分。走る距離は二千四〇〇メートル。
スタートの号令待ちが、今までのどんな競争よりも長く感じる。
――ガシャン!
ゲートが開いた! 僕はうまくゲートを飛び出すことに成功した!
†
……競争最中の記憶、ゲートを飛び出してからの記憶は僕の頭の中にほとんど残っていない。とにかく夢中だった。競馬場から聞こえてくる相変わらずの地鳴りのような歓声、セバスチャンや他の機種、他の競走馬たちの怒号、絶叫のような掛け声。
僕は、がむしゃらに、ただひたすらに走った……と、思う。
気付いたときには、僕は馬場のど真ん中、中央で立ち止まっている。
背中から嗚咽が聞こえる。セバスチャンが泣いているのだ。何故泣いているのだろう?
「……ひっく、ぐすっ……、ひっく……、勝ったよ……、勝ったんだよ、アウグラ……、僕が、僕たちが……ダービーを……」
実況者の声が聞こえる。
「今年のダービーを制したのはアウグラです! 馬名の由来は、イタリア語で願い、祈り、希。まさにこの馬の関係者すべての願いが叶った瞬間でしょう! 馬主は山川桃太郎、調教師は草ヶ部昌吾、厩舎は草ヶ部厩舎です。ジョッキーもダービーの栄冠を手にするのは初めてです。ローリアウム・セバスチャン。イギリスからはるばるこちらの競馬界に移籍した海外の若武者です!」
この日一番の地鳴りが鳴った。
「……そっか、勝てたんだ、僕」
†
その後、まだ泣き止まないセバスチャンに誘導され、帰りの地下馬道を歩いていく。
草ヶ部先生がめずらしく泣いている。
厩務員のみんなも、ほぼ全員泣いている。
その後、表彰やら撮影やらで、夜も耽ったころ、僕らは厩舎へ帰っていく。
†
住み慣れた馬房、今ここにいるのは僕と、僕の小さな親友の、猫のリベルタ。
「お前が遂にダービー馬か……。やったな、アウグラ」
「うん、ありがとうリベルタ。君がずっと応援してくれてたおかげだよ。これからもずっとずっと応援してね」
「ああ、うん、それなんだけどよ……、お前も一人前のダービー馬になったことだし、お別れを言おうとかと思ってな、今日は……」
「え? どうしたのさリベルタ! なんでそんなこといきなり言うの! やめてよ!」
「大人になるとさ、ずっと家に……ってわけにもいかないのさアウグラ」
「わかんないよ! わかりたくないよ!
僕はずっと叫びながら泣いていて、リベルタはそれを頷きながら、寂しそうに聞いていた。
翌日、リベルタを厩舎で見ることがなくなった。先生や厩務員のみんなも心配している。何かの事故にでも巻き込まれたんじゃないかと。
でも、僕は知っている。僕の小さな親友は、何かの理由があって僕たちの前から姿を消したのだと。
親友が消えてからずっと、リベルタを昔から可愛がっていた先生は寂しそうだ。
「あの子がいなくなったら、こうも厩舎が寂しく感じるものとはな……せめて何処かで無事であればいいのだが……」
僕が人間の言葉を話せたら、先生に「大丈夫だよ」って言いたかった。
†
――四年後。
北海道のとある牧場。僕は種牡馬として沢山の子供、未来のダービー馬を作っている。子供はみんな可愛いし、みんながダービー馬になれたらいいのに……とも思うけど、そうもいかない。
競走馬は競馬から引退して、その現役時代の実績がよければ種牡馬としての第二の生活が始まる。子供が大きくなって沢山活躍してくれるのが今の楽しみだし、夢だ。
――それに。
僕の背には小さな三匹の猫が乗っている。
話のわかる俺の親友の馬がいるから、何かあったらそいつを頼れ、と言われてある日、僕の前に三匹の猫がやってきた。
毛色や種類は様々だが、どこかで懐かしい、昔から知っているような感じがした。
あの日、僕の親友は番を見つけて、子供を作るために旅立ったのかと、今では理解できる。
――またいつか、どこかで会えたらいいな。僕の小さな親友。
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