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「おしの姐さん、なんでやってくれないのさ!」
焦れたように言うおてつさんに、おしのさんと呼ばれた人が答えているのが聞こえた。
「相手が一人で来ているものを、私らが束になってかかるは卑怯だよ、私らは手を出さない、あんた一人でやるのが筋ってもんさ」
「金なら払っただろう!」
大音声で叫ぶおてつさんに、
「はん、あたしらを舐めるんじゃないよ、金で動かそうなんざ百年早い、ほれこの通り返すさ」
おてつさんの足元にチャリンと小判が落ちた。一両も!その額に驚いている間に、あとから、あとから、チャリンチャリンと音がして結局、元芸者仲間は帰って行った。
恥ずかしかったのもあったのだろう、おてつさんがゆき江様につかみかかったその時、振り向きざまにゆき江様が箒を振り下ろされた。びしっと音がして、箒の柄がおてつさんの、手の甲を打った。
暫く声もなく転げまわって、
「なにするんだい!」
そう叫んでいた時にはゆき江様はもう夫婦の部屋へと入られていた。
ゆき江様がいらした頃は、すっきりとしたお部屋だったのに、開け放したそこは自堕落を絵に描いたような、部屋になり果てていた。
二人して、着物から花瓶から全部を庭に投げ捨てた。
ああ、その香炉は、とか、その帯は、とか声が聞こえてきたけれど、全部を吐き出した。
私は気付いてしまった。
ゆき江様が泣いていらっしゃる事を。
キラキラとはらはらと頬を伝う涙が胸に痛かった。
中庭を挟んだ向こうの廊下に、呆然としている正一郎様がいらした。
それに気づかれると、なんと、
「あっかんべー」と人差し指で右の眼の下を伸ばされ、舌を思いっきり出された。
その後肩の力を抜いて、周りを見渡し、誰へともなく一礼され、しゃんと背筋を伸ばし、歩いて行かれた。
でも、
でも、その肩は、
小刻みに震えていらした。
外で待っていらした庄之助様を見られると、少し首を傾けられた。
多分、微笑もうとしていらっしゃるのだ。
「姉上!お泣きなさい!」
庄之助様が叫ばれた。
崩れ落ちて行くゆき江様を支え、抱きかかえながら言われた
「御立派でしたよ、姉上、御立派でした」
その庄之助様のお声は、今も耳に残っている。
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