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新之助は十五歳の春から、見習いの見習い、くらいの感覚で出仕していた。
それが一転、急に跡を継ぐ事となったのだ。
父と同年代の同僚達は、
見習いからいきなり本雇になったのだから、直ぐに仕事が出来なくとも仕方無いと慮ってくれて良くしてくれたが、これでも一家の長である。
甘えてばかりはいられないと必死で仕事に励んだ。
そのうち要領も得て上役にも重宝がられるようになった。
一年、二年、と月日が経つ内、に子供子供した体も逞しさが出てきた。
早いもので十九になっていた。その間、父と同年代の同僚はぽつりぽつりと隠居していき、その息子達が同僚となった。
年齢が近いとはいえそれでも年上の同僚が多かった。
陰口が聞こえてきた。
俺たちを馬鹿にしているというものだった。
そんなつもりはなかったが、上役に気に入られ、なんでもそつなくこなす態度にやっかみがあったのであろう。
いつか分かり合える日も来ようとのんびり構える事とし、言える事は言って後は気にせずにいようと努めた。しかし体は正直で胃がキリキリと痛む。
食も細り暗く塞ぐようになった。
そんな時に縁談が持ち上がった。
正直面倒くさかったが、職場の軋轢と、うるさい親戚筋両方に立ち向かう気力など体のどこにも残っていなかった。
何を言われても、はいはいと返事をしていたら、祝言の日になっていた。
”ちせ”は十七歳で嫁いできた。驚く程よく笑う。
母はめったに顔を崩すことがない。その為笑いになれていない新之助は何がそんなにおかしいのかと思うほどだった。
「おはようございます」と笑顔になり、
下女と一緒に賑やかに食事の支度をしているところを、武家の嫁がはしたないと母に窘められ、しゅんとしたと思えば次の瞬間また笑い、出仕の際も「いってらっしゃいませ」と輝くような笑顔を見せる。
ちせの笑顔をみていると心が温かくなることに気付いた。
その顔を思い浮かべると自然と胃の痛みが和らぐようだった。
ある日下男の小吉と家の近くまで帰ってくると、母の大きな声が聞こえてきた。
何事かと足を速めると、母の前でうなだれるちせがいた。
見ればその胸に何かを抱いていた。
「犬など飼いませんよ、捨てていらっしゃい」
「はい」
そう返事を返すものの、動けないでいるようだ。
「どうしました、母上、ご近所に筒抜けですよ」
声をかけると、忌々しそうにちせを一瞥し、奥に入っていった。
手荷物を小吉に渡し、不安そうに見ている下女の”はな”に
「夕餉の支度をしておくれ」というと、ホッとしたような顔をして、ペコリと頭を下げ台所に消えた。
「犬の子を拾ったのか?」
胸に犬の子を抱くちせを見れば聞かずとも分かったが問うてみた。
「はなとお使いに出たのですが、その帰り道に付いて来たのです」
「最初は追い払ったのですが、ずっと付いて来てしまって、ついに家の前まで。そこで抱いてしまったらもう離れられない気持ちになってしまって……お姑様にお願いしたのですが叱られてしまいました」
「ちせは犬がすきなのだな?」
新之助の問いに小さく頷いた。
聞けば実家でも飼っていたと言う。
「すまぬの、母は犬にかまれたことがあって苦手なのだ」
「しかし、せっかくの縁、もう一度捨てるのは忍びないの」
寸の間何事かを考えていた新之助は
「よし」と己の腿を叩き、
「ちせの実家に飼うて貰えぬか聞きに参ろう」
そう言いながら立ち上がると
目を丸くしているちせの顔を見て
「あちらで飼ってもらえばお前も会えよう、私が頼んでみるから」
そう柔らかに微笑んで見せた。
「なりませぬ、犬の事で当主であるあなたが自ら動かれるなどと」
騒ぐちせを横目に
「何すぐ近くだ」
夕暮れていく道を犬を抱きちせと二人、伴もつけず、ちせの実家に向かった。
ちせの家では大騒ぎであった。
婿とはいえ、格上の家格の当主自らが頭をさげ犬をもらってくれというのだ。
否も応もない。
「私はずるいな。こうして尋ね来て頼めば否とはいえぬのを分かっていて、申し訳ない」
とまた頭を下げる。
「お手をあげてくだされ」と冷や汗をかきながらも、ちせの父母は婿の優しさにいたく感動しながら目をうるませ、子犬を抱きしめていた。
帰るころには夜が更けていた。
下男をつけるという申し出を断って二人で来た道を帰る。
月が出ていた。
帰り道、新之助はちせの実家から持たされた土産を背に括り付けると、後ろを歩くちせを待ち、手を伸ばした。
何の事かと訝しんでいるちせの手を取った。
余りの事に恥ずかしくて固まってしまったちせに
「歩かぬと抱きかかえるぞ」
と言われようやく、ぎくしゃくと歩き出した。
「お前が来てくれて家が明かるうなった、よう来てくれたの」
前を向いたまま、幼子の手を引くように歩く新之助がポツリと言った。
同僚からのやっかみは仕事に支障をきたすようになっていた。
それでも耐えられたのは、ちせの笑顔があったればこそだと思っている。
「これからも、頼むの」
あまり喋らない夫が自分を必要としてくれている事が分かった。
「はい」と答えたちせに振り返ってみせた夫の顔はこの上なく優しかった。
そしてその手をひきよせられ胸に抱かれた。
「頼むの」胸の中でもう一度そう聞いた。
「さあ、帰ろう」
歩き始めた二人を月だけが見ていた。
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