ゆき江

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 私が奉公に上がったのは、日本橋にある薬種問屋の岸谷屋さん。初代とその番頭さんが偉く遣手で、一代で株を手に入れたと桂庵の主人が教えてくれた。 「二代目も遣手だが人情家だし、奥様も良い方だ。初孫の坊ちゃんを可愛がっておいでだ。しっかり坊ちゃんのお世話をするんだよ」 そう言って送り出してくれた。    若奥様のゆき江様は、とてもお優しくて、お名前のとおり雪の様に白い肌の美しい方だった。若旦那様の正一郎様は、お忙しそうで、あまりお見掛けしなかったけれど、会えばいつも「ゆき江と誠一郎の事、頼むね」と、お優しかった。  ご夫婦で並んでいらっしゃるときなど、美男美女でお似合いだなと、ぽ~っとしてしまう事もあったほどだった。 それをゆき江様に言うと、恥じらう様に、嬉しいわと、微笑まれるのがまた何とも眩しい程美しかった。  女中頭のおきみさんにも、そう言うと、確かにゆき江様はお美しいけどねと言い、ちょっと悲しそうな顔をした。私がぽかんと見上げると、はっと我に返ったように慌てて、さあ仕事仕事と私を追い立てた。 その時は分からなかったその顔の意味を、後で知る事になった。  ゆき江様は、私のような雑用係にも、 「どこでどんな風に役に立つことがあるか分からないから、知らないより知っておいた方がいいわ」 と仰ってお茶やお花について教えて下さる事があった。 最初聞いた時は驚いて、  「字も満足に読めない私が、お茶やお花なんて、滅相もございません」 そう言ってお断りした。働きに来てるのに、そんな事までして頂いたら、バチが当たる。  病弱なおっかさんとの暮らしは生きてくのがやっとで、手習所もすぐやめてしまった。何とか仮名は読めるくらいだという私の話を聞いたゆき江様は、あっという間にお手本を作ってくださった。 「うちに来てくれたのも何かのご縁です、しっかり手習いしましょう」  番頭さんに頼んで下さって、お店が閉まってからは、小僧さん達が算盤のお稽古をする横で手習いを、お昼間のひと時、坊ちゃんをおんぶしながらお茶やお花のお稽古をして頂いた。 こんなに良くして頂いてと、お礼を言うと、 「おはるに相手して貰って、気が紛れてるのは私の方ですよ」と優しく微笑まれたけど、少しだけ寂し気に見えたそのお顔が気になった。  私は、出来る限り長くゆき江様にお仕えしよう、その為にも早く役に立つ様になろうと心に誓った。
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