ワンダフルデイズ

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ワンダフルデイズ

「きみは、さよならが、下手だね」 薄緑色の病衣に身を包んだ彼女が突然、絞りだすようにそう呟いた。ベッド脇に腰掛けていたぼくは驚きのあまり、読みかけの単行本を床に落とした。 てっきり眠っているとばかり思っていた。最近ではうつらうつらすることが多く、こうして声を聞けること自体、すごく貴重なことだった。 ここは人里離れた緩和病棟。街灯りどころか月の光すら届かない世界の片隅で、なにもできないぼくは後悔ばかりつのらせていた。 グルメだって温泉だって観光地だって。彼女が望むところなら、どこだって連れ出せばよかったじゃないか。 彼女はいまも痰がらみの咳をして、苦しそうに背中を丸めている。秋田犬のぬいぐるみを抱き寄せて、物憂げな視線でぼくを射抜いた。 「きみは、この子みたいに、なっちゃ駄目だよ」 「なんだい、それ」 あまりの脈絡のなさに笑ってしまう。なにか伝えたいことがあるのだろうか。ぼくは彼女の肩に優しく触れながら口元に耳を近づける。開け放たれた窓の向こうには、仄青い闇が広がっている。彼女はか細い声で言う。 「人生は、いつだって––––」  * 「それで、ご用件は」 「としひこちゃんが、エサを食べないんです」 小森さんは診察台のうえの生物に、心配そうな眼差しを向けた。そこには芝犬型ワンダフルがちょこんと座り、後ろ足で首の辺りを掻いて気持ち良さそうに眼を細めている。 「もともと食いしん坊な仔なのに、夏の暑さにやられたのかしら、食がどんどん細くなってしまって」 「それはいけませんね。水分は与えていますか」 「ええ、勿論」 「食あたりの可能性は。陽に当たるところに置いていた果物を、食べてしまったとか」 「それは絶対にありえません。としひこちゃんはわたしの宝ですから」 宝だとしても、腐った果物を食べてしまうことはあるだろうに。 おれは心のなかでつっこみをいれつつも、表面ではふむふむと頷き、ワンダフルを観察していた。 全身の毛並みはもふもふとやわらかく、舌はたっぷりと潤って血色よく、前脚の肉球はふにふにと硬めのマシュマロのような弾力だ。 おれは首に掛けていた聴診器をワンダフルの胸にあてがった。両耳に聞こえるのは心臓が奏でる鼓動、ではなく、時計仕掛けのクリック音だ。 ワンダフルは、おれが七年の歳月を経て開発した、人工知能搭載の犬型ロボットだ。 かつて一世を風靡した犬型ロボットの最新機種で、しっとりとした柔肌素材でコーティングされ、外観はほぼ生身の犬に遜色ない仕上がりとなっている。 そこに最先端の人工知能を搭載することで、むやみに吠えたり噛みついたりせず、かつての愛犬を彷彿とさせる動きを再現できるペットロボとして、記録的大ヒットを飛ばした。 現在はワンダフルのメンテナンスがおれの生業なのだ。 「いたって健康そうですね」 おれは使い捨ての手袋を捨て、カルテに診療記録を残していく。 考えていたのは例の故障のこと。 ここ最近、いくつかのワンダフルにおなじような不具合が見つかっている。喜んでいたはずの散歩に出掛けなくなる、特定の人物に牙を剥く等々。 はっきりした原因は不明だが、人工知能に問題があるという分析はできている。 おれは依頼主をさりげなく観察する。 とれかけのパーマ、着ているブラウスのシワ、グレーのスカートのほつれ。 もしおれの仮説が正しいとすれば、小森さんのワンダフルは健気な我慢をしていることになる。 おれはドッグフードを試しに与えてみることにした。するとワンダフルは、ためらうことなくむしゃむしゃとエサにありつくではないか。 「まあ。なんてこと」小森さんは口元を覆った。 「なんだか恥ずかしいわ」 「悪い病気でなくて良かったです。このあとご自宅で最終確認させてくださ い。それと今回の診察代は無料で結構です。最終メンテナンスとして、サービスしますよ」 「あら、ご親切にどうも。助かるわ」 小森さんが喜びの手を叩くと同時に、ワンダフルも御礼を述べるようにはっはと舌を出した。やはり、そうなのか。 「それではお大事に」 小森さんと愛犬は上機嫌に診察室をあとにした。おれは長年愛用するパソコンの電源を完全に落とし、役目を終えた診察室を見渡した。 壁一面に飾られた写真たち。 そこに映っているのは、ワンダフルと笑顔を取り戻した人々との日常で、ダンボールには送られてきた手紙がうずたかく山積みになっている。 かつて大勢の従業員で溢れた自慢の診療所もいまでは閑古鳥が鳴き、近日中に取り壊しが決まっている。過去の栄光に縋(すが)る哀れな自分。 「……くだらない」 おれはぎゅっと拳を握りしめ、激情が過ぎ去るのをじっと耐え忍んだ。 世間から脚光を浴びたワンダフルだったが、その開発に用いたとある技術が、センセーショナルなニュースとして世間を賑わした。 「ワンダフルは、生命の冒涜ですよ」 待っていたのは、有識者や世論からの猛バッシング。だれが名付けたのか、『世紀のマッドサイエンティスト』などという汚名がひとり歩きし、抗議や殺害予告の電話が日夜鳴り止まなかった。 擁護してくれる味方もいたが、あまりに多勢に無勢、吹きつける逆風にひとりまたひとりと去っていき、ついにはワンダフル製造も中止に追い込まれた。 おれのもとに残ったのは、不信感と憎悪だけ。 とある人種にとってはさぞかし楽しく、やめられない娯楽なんだろう。 夢を実現しようと努力する奴の足を引っ張り、無様に転けるのを安全なところから眺めるのが。 「ねえ、なにしているの」ひとりきりの空間に恋人のアイカの声が飛び込んだ。「午後の往診、間に合わないよ」 「ああ、いまいく」 おれは必要な道具を携えて表に出た。 ギラつく太陽がアスファルトを焼き、額にたまのような汗が浮かぶ。入り口のそばでアイドリングしている白のオンボロ軽自動車の助手席に乗りこむ。 「待たせたな」 「飲み物、ドリンクホルダーに入れているよ」 車は急旋回して車線へと合流する。 フロントガラス越しに広がる夏空は、忌々しいほどに透ける青さだった。 おれは濡れたペットボトルに口を付ける。甘ったるさが後味として残り、またこのカフェオレかと思ったが口には出さない。 好きと慣れを区別することは、だれにとっても難しい。 「今日はとしひこちゃんか」アイカは大きくハンドルを切った。 「あの仔は眼がクリクリして、イケメンだよね」 いつも混雑している支線道路も今日ばかりは空いているようだった。 夏祭りもすでに終わり、えも言われぬ寂しさが街に漂っている。またこの日なのか。おれは瞼を閉じた。 季節は巡っていく、おれだけを残して。 「どうしたの。えらく沈んでいるね」 「べつに」 「……そう」 アイカはそれっきり喋らなくなった。アイカはおれの機微にいつも敏感なのだ。 やがて郊外の外れにポツンと建つ一軒家に辿り着く。ブロック塀の横に停車するなり工具箱を担いで外に出た。すっかり錆びついた門扉を押し開ける。庭の草花は伸び放題で、池は深緑色に濁っていた。 「ごめんください」 古風なベルを押し鳴らすと、小森さんが扉を開けた。三和土に降りたワンダフルは狐色の尻尾をぶんぶん振って出迎えてくれる。 「あがって」 「お邪魔します」 他人の家の匂いというのは、どうも落ち着かない。玄関先に投げ出されたリードと首輪、へこんだゴムボール。ここだけ時間が停止しているようだった。 なにかの思念がただよう渡り廊下の先に、小森さんの生活する居間があった。 テレビ横の仏壇に火のついた線香が立てられ、旦那の位牌には『俊彦』とあった。なすときゅうりでつくられた精霊馬が仲良く添えられている。 「さて、いつものようにエサを用意してください」 小森さんが台所で準備している合間、おれは自分の作業を進める。 足元にじゃれつくワンダフルの顎を撫でると、気持ち良さそうに喉を鳴らして藍色の眼をとろんとさせた。人懐っこい性格だ。 おれはカバンから注射器を取り出して右脚に針を突き刺した。ワンダフルは身動ぎひとつしない。紅い液体には人工知能の一部を強制リセットする成分が含まれている。注入が終わった頃に主人が戻ってきた。 「これでいいのかしら」 「結構です。エサを与えてください」 「ちゃんと食べてくれればいいのだけれど」 戸惑った手つきで床に置かれた皿。そのドッグフードの量は泣けるほどにすくなかった。 ワンダフルは身じろぎひとつしなかったが、やがてくんくんと濡れた鼻を突き出すとエサに擦り寄っていった。毒が入ってないかたしかめるように、真っ赤な舌で表面を舐める。 やがて遠慮なく頰張りはじめ、小森さんは満足げに頷いた。 「よかったわ。でもいままでエサを食べなかったのは、どうしてかしら」 こちらに向けられた小森さんの表情には畏怖の念が垣間見えた。無理もない。辿りついた科学は、もはや魔法じみてみえることだろう。 「ワンダフルは、一見した限りではただの愛玩動物ですが、じつはこいつ、非常に賢い奴なんですよ」 「どういうこと」 「こいつの体内からはですね、人体に無害な磁場が絶えず構成され、あなたの脳神経ネットワークをつねに観察しています。つまりこの仔は、あなたの扁桃体や海馬などの興奮を感知して、エサを食べない判断をしていたんです」 ワンダフルは、飼い主の感情を人工知能でフィードバックし、最適行動を学習していく。 もしワンダフルがかつての愛犬がしていたクセを真似できた場合、それを見た飼い主の辺縁系は興奮して懐かしさを覚える。 するとその一連の行動は『飼い主を喜ばせる行動』と人工知能に判断され、次からの行動に反映されるというわけだ。 これにより、愛犬とほぼ変わらないふるまいをするペットロボが誕生する。 我ながら完璧なプログラミングと絶賛したのも過去のこと、最近になって、様々な綻びが浮かびあがってきた。 「でも、それってまるで」小森さんは困惑したように言う。 「わたしがとしひこちゃんに、エサを食べて欲しくないみたいじゃない」 おれは曖昧な笑みを浮かべて帰り支度を始めた。結論はすでに出ている。 言葉をキレイに飾りたてれば、人間相手ならばとりつくろえるだろう。けれどもワンダフルは騙せない。 「それでは、このへんで」 おれは玄関へと足を向けた。 彼女はきっと、貧困に窮してしまっているのだ。 愛犬のエサ代すら、惜しいほどに。 「ちょっと待って。よく分からないけれど、その技術で亡くなった人を蘇らせられないの」 ほとんど叫んでいるような問いかけだった。そのあまりの迫力に、言い逃れはできないだろうとゆっくりと振り返る。 「それは叶いません」 「嘘おっしゃい。隠しても無駄よ」 「いいえ、嘘じゃない。ある程度は上手くいきました。しかしながらこの技術では、故人を蘇らせることはできない」 人間の脳神経ネットワークを監視する人工知能。 それをアンドロイドに用いれば、故人と再会できるかもしれない。 その仮説に心踊らされるまま、おれは2年前に計画を実行に移した。 そして分かったことは、人間はそんなに簡単じゃないということだ。 たとえばこんな笑い話がある。 主人が無類の甘党だった場合、アンドロイドは甘いものばかり提供しようとするのだ。それが長期的視点では、主人の早死にを招くとしても、だ。 「死者を蘇らせる錬金術なんて、この世には存在しないんだ」 分かっている。 おれは小森さんではなく、自分に言い聞かせていることも。 今度こそお暇しようとしたそのとき、おとなしかったワンダフルが警告するように吠えはじめた。ふりかえるとそこには、果物ナイフをにぎりしめる哀れな老人がいた。眼の焦点はあわず、虚ろな表情をしている。 「そっか。無理なのね。期待していたのに」 「小森さん、馬鹿な真似はやめろ。あなたは亡者に呪われているんだ。愛犬に自分の主人の名前を付けるなんて、正気の沙汰じゃない」 「あんたに、なにが分かるっていうの」 「はは、ごもっともな意見だ」 おれは小森さんのことなんて、これっぽっちも理解できていないだろう。 けれどもその痛々しさは、だれかにひどく似ているんだ。おれが鏡をのぞけば毎日出会える男に、そっくりだった。 「ええ、分かりませんね。それでも死ねば終わりにできるって考えは、好きになれない。このイカれた世界に服従しているようで、癪じゃないですか」 「もういいの。もうすこし年をとれば、あなたもきっと分かるわ。すべてが虚しくなるのよ。想い出があまりに美しすぎるとね」 小森さんは狂気の笑みを浮かべて刃物の先端を首元に向けた。けれども逡巡するような眼差しをワンダフルに注ぐ。静寂が部屋に落ちた。 やがて慈愛に満ちた声を震わせる。 「許してね、としひこちゃん。こんな駄目な飼い主で」 そのときだった。 「あああああ」 小森さんは足を抱えるようにして倒れこんだ。刃物がマットのうえを跳ねる。のたうちまわる彼女の左足首には、楕円形の歯型がついていた。そばには血に染まった歯牙で荒い呼吸をするワンダフルがいた。 「おまえ、主人を守ったのか」 「ワン!」 早く行け。 聞こえるはずのない声が頭に轟いた。 おれは突き動かされるように居間を飛び出す。老人の慟哭と忠犬のかぼそい鳴き声。それがいつまでも耳の奥を引っ掻き続け、おれの心をざわつかせるのだった。 逃げるようにして小森さんの家をあとにしたおれは、冷たい助手席にへたり込んだ。 さきほどの光景が、ワンダフルの血で濡れた口元と決意に満ちた表情が、網膜に焼きついていた。飼い主の自殺を食い止めるために牙を剥く。 そんなこと、あり得るのか。 「珍しく感情が荒れているね。どうしたの」 アイカの穏やかな声音。美しい横顔。 けれどもその内実はどうなのか、まったく見当もつかなかった。 おれはなんてものを生み出してしまったのだろう。 「なあ、アイカ。行きたい場所がある」 「了解。どこに行きたいの」 起動させたナビに従って車はすいすいと進み、やがて人気のない山の麓に着く。 おれたちは道なき道に一歩を踏み出した。 木々は覆い被さるように揺れ、草いきれが鼻孔をくすぐる。名も知れない虫たちが騒ぎ、街灯はまばらで携帯の明かりだけが頼りだった。 「どこに行くの」 愛香は暗いところが苦手だった。どれだけおれが頼みこんだとしても、絶対に来てくれないだろう。背の高い草たちを掻き分けた先で空間がひらけた。 そこは墓場だった。 卒塔婆がドミノのように並び、生花がいくつか供えてある。 「あすこまで行こう」 足取りが重いアイカの腕を引っ張る。 その肌は本物の血が通っているかのように温かかった。 砂利を蹴飛ばしながら運命の墓石にたどり着く。アイカは困惑した面持ちで大理石の表面を照らした。 「これは、どういうこと」 おれはなにも告げなかった。告げる必要がなかった。磁場ですべての感情を察知できるアイカは、言葉のやりとりをほとんど必要としないからだ。 「なあ、アイカ。おまえはこのイかれた世界が好きか」 「そんなこと、聞かれても困るよ」 「そうだよな。おれはさ、この世界が大嫌いなんだ」 ワンダフルを通じて、嫌というほど味わったことがある。 それは愛するものを忘れて生きられるほど、人間は強くないということ。 むしろなにかを愛さないほうが、健全に生きられるんじゃないかとすら思える。 「10年前の今日、あいつがなにを伝えたかったのか。それをいまでも考えちまうんだ。最高に女々しいよな。なあ、アイカ。おまえはそんなおれを笑うか」 「ううん、笑わないよ。だって大切なものを奪われたら、だれだって悲しいもの。けれどもそれは期待の裏返しでもある。違うかい」 「いつもそうやって、おれの気持ちを追い越していくのは、やめてくれ」 おれはアイカと組んでいた腕を乱暴にほどいた。 なぜだろう。おれは彼女に優しくできない。 愛香にあまりに似過ぎているからだろうか、むしろ傷つけてしまいたいと感じる自分がいて、嫌気すらさす。 「おれはおまえに教えられたよ。心地よいだけの関係なんて甘い砂糖と一緒、なにも残らない。ふたりで築きあげたものじゃなきゃ意味がないんだ」 過去ばかりがあざやかで、現実はモノトーンに沈んでいるなんて、どんな皮肉だろう。 「ごめんな、アイカ。おれはおまえを、愛せない」 「……ねえ、ひとつお願いしてもいいかな」 アイカは穏やかに微笑んでいた。同時に泣いているようでもあって、まるで感情の扱いを知らない子供のようだった。 彼女はおれの機微には敏感だが、自分の感情には疎いのかもしれない。 「愛香さんについて、教えて欲しいんだ」 「そんなこと、知ってどうするんだ」 「ただ知るだけでいい。きみにとって彼女が、どれほど大きな存在だったか感じたいんだ。愛香さんを想い出してみて。そうすればわたしにも分かるはずだから」 アイカからのお願いなど滅多にないことだった。日頃の苦労を掛けていることもあり、おれは十年の歳月の彼方へ身を委ねることにした。いまでも激情をもたらしてくれる彼女に想いを馳せる。 「あいつは純粋なお人好しだったな。お涙頂戴のペット映画もてんで駄目、とにかく無類の犬好きで、捨てられた犬のために募金活動をして回ったっけ。あいつ自身が犬に似ていたから、類は友を呼ぶで、放っておけなかったんだな」 「そっか。愛香さんは、そういう人なのか」アイカは眼を細める。 「なるほど、そういうことか」 アイカがなにかを悟った次の瞬間、糸が切れた操り人形のように突如崩れ落ちた。すんでのところでなんとか抱きとめることができたけれども、その表情に生気はない。腕はだらりと脱力してしまっている。 「ど、どうしたんだ」 「まずいね。どうやらシンクロしすぎたみたいだ。たぶん、回路が焼き切れちゃった」 「なにを言っているんだよ」 「きみの記憶に封じ込められている愛香さん。その存在にアクセスしてみたんだ。そしたらこうなっちゃった。愛ってすごいエネルギーだね。好きや嫌いなんて次元を軽く超えちゃっている。こんなに凄まじいって、知らなかったな」 「……おまえ。おれの辺縁系から、愛を理解しようとしたのか」 おれは困惑するばかりだった。 アイカは優しい声で続ける。まるで子どもをあやす母親のように。 「おかげで分かったよ。彼女が息を引き取るまえに伝えたかったこと。『きみはね、帰ってこない飼い主を待ち続ける、忠犬ハチになっちゃ駄目だよ。人生はいつだってすばらしく不思議で満ちている。だからわたしのことはさっさと忘れて、しあわせになりなよ』」 「なんだよ、それ」 胸の奥からこみあげてくる熱いなにか。呼吸もままならず、立っているのもやっとだ。苦し紛れに空を見上げる。夜空に星は瞬いていなかった。 新月だった。 「きみってわがままだね。辺縁系が真っ赤な太陽みたいに興奮している。嬉しいよ、わたしを停止させたくないって叫んでくれているもの」 アイカは無邪気に笑った。別れの淵で手を振るように。 「やっぱりだよ。きみはね、さよならが、下手なんだ」 その言葉を最後にアイカは役目を終えた。もう2度とは動かない彼女を抱きしめて、空白で塗り潰した歳月を思う。 どれだけの孤独を、味わわせてしまったのだろう。 「おまえは感じることができたか。愛がどういうものなのか」 返事はなかった。ただ優しい風が夜の隙間を駆け抜けていった。 おれはなぜ、失ってはじめて、大切なものに気がつくのだろう。 やがておれはアイカの亡骸を抱えて歩き出す。涙がこぼれそうなほどに、その身体は軽かった。 夜が明けるまえに、見晴らしのいい丘に墓標を立ててやろう。それがアイカの知りたがった愛の証明になってくれると信じたい。 彼女の存在とこれまでの献身に、心から感謝した。 「人生は、いつだって、ワンダフルデイズ」 おれは唇に乗せて、そう呟いてみた。 この世界も悪くない。なんとなく、そう思えた。
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