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レディーハート
Ⅰ
目的の店へ着くと、そこは既に満席だった。
ふわふわのパンケーキで有名な店。店内には、ほとんどカップルしかいないようだ。
「すみません、ご案内に三十分ほどかかってしまうのですが」
店員は、やや疲れ気味でイライラしている様子である。和也はしのぶに、
「いいかい?」
と問いかける。しのぶはちょこんと頷いた。
リストに名前を書いて、店を出ると、街を少しぶらつくことにした。
「やっぱり雑誌に掲載されると、お客さんが増えちゃうのかな?」
「まあ、そうなんだろうな。ここでリピーターを作れるかどうかが分かれ目だろうけど、ここにはまだそこまでの底力はなさそうだ」
しのぶは、柳田の言っていることを特に理解しないまま、とりあえず「そうね」と答えた。
篠原しのぶ、という氏名が、彼女はあまり好きではなかった。生まれたときは、「熊谷しのぶ」だった。やがて両親が離婚し、一時「藤原しのぶ」になった。そして、母の再婚とともに、彼女は「篠原しのぶ」になったのだった。
篠原しのぶ、名前で呼んでも苗字で呼んでも「しのちゃん」という安易なネーミング。それまでは「熊ちゃん」、あるいは「藤ちゃん」と呼ばれる可能性もあったのだが、最終的に彼女には「しのちゃん」という愛称しかつけようがなくなった。
「しのちゃん」と呼ばれるのが嫌いなわけではない。しかし、「篠原しのぶ」だと、名前と苗字の組み合わせがあまりに不自然である。おそらく命名されたときと苗字が変わったのだ、と容易に推測されてしまう危うさがある。しのぶは、同級生にそのことを気づかれてしまうのではないかと、転校してからも、ひやひやしながら過ごしていた。
「いいじゃん、三木美樹とか、佐倉さくらとかさ、そういう名前の人だっているかもしれない。それに比べたら、篠原しのぶに何の問題があるんだ」
そう言ってくれたのは、二年生になってから同じクラスになった、高橋だった。彼にはそれとなく好感を抱いていたのだが、最終的にそのことが決め手となり、しのぶは高橋に格別の好意を持つようになった。
「あ、お花屋さんだ」
しのぶは思わず足を止める。
「入るかい?」
柳田も立ち止まる。
「うん」
しのぶはさり気なく、柳田の腕に自分の腕を絡ませた。
「これ、いいなあ」
和也はモウセンゴケを見つけると、うれしそうにそばによる。モウセンゴケは食虫植物であり、葉の淵にねばねばした液がついていて、止まった昆虫を食べてしまうのだ。
「やだ、気味が悪い」
しのぶは、不細工にならないよう気をつけながら顔をしかめる。
「しのはどういうのが好みなんだ?」
「可愛いのがいい」
柳田は、目を細めてしのぶを見つめる。二人は顔を見合わせて微笑んだ。
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