雨の図書室

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 * 「疲れた……」  春樹が廊下で一人、とぼとぼと歩いていた。  昼間の広野に立ち向かった話は一気にあらゆるところで噂となり、帰る時間になっても周りからの質問攻めにあっていたのだ。  それを「トイレに行くから」と嘘をついてその場をなんとか離れてこのまま帰ってしまおうと昇降口で外靴を手に取ったとき、クラスメイトがここに来る気配があったため、結局外靴を持ったまま廊下に戻ってきてしまった。  どこか、逃げる場所はないものか。いや、外靴はあるからどっかの窓から出ればいいんだけど。  その時、階段の方から声が聞こえてくる。 「おい、もしかして西山、学校内で迷子になってるんじゃね!?」  その言葉と同時に聞こえる慌てた足音。 「……やば」  春樹はどうにか逃げようと自分のすぐ隣にあった図書室に入った。  すると。  開け放たれた窓から吹く風でカーテンは大きくなびき、桜のはなびらを乗せて。  夕暮れの光を受けて綺麗に輝く髪を持った少年が正面のカウンター席に座っていて、読みかけていた本に栞を挟んで顔を上げた。 「こんにちは」  優しい声だと春樹は思った。優しくて、儚くて、なぜか切なくなる声だ。こんな気持ちになったのは、きっと初めて。 「あ……うん、こんにちは」  見とれてしまった自分に若干の動揺を覚えるが、走ってくる廊下の音にハッとする。  *  春樹のクラスメイトたちは図書室の扉を開けた。 「おい、遠野! 俺たちのクラスに来た転校生の西山ってやつ来てないか?」  すると、遠野は首をかしげる。 「西山くん……? ごめん、誰も来てないけど……」 「そっか、わかった!」 「もしかしたらもう帰ったかもしれないよ? 疲れてただろうし」 「それもそうか……。わかった、とりあえずありがとな!」  そしてバタンと勢いよく図書室のドアは閉められた。「ここにもいなかったぞ!」とクラスメイトの騒がしい余韻が響き、図書室からの風で廊下の床に流れ着いた桜の花びらがひらりと舞う。  その音をしばらく聞いていた『遠野』と呼ばれた少年は頃合いを見て、自分のカウンター席の下の方に微笑みを向けた。 「……もう大丈夫そうだよ、西山くん」 「……行った?」 「うん」  優しい笑みを見て、カウンター席の下に潜り込んでいた春樹はするりと抜け出して立ち上がり、ため息をつく。 「疲れた……」 「すごい人気者になっちゃったね。僕も自分のクラスで噂になってるのを聞いたよ」 「正直なところ、あんまり嬉しくないんだけどねー……」  のんびりと答えると遠野はくすりと笑って見せた。 「なに?」 「あ、ごめん。広野に立ち向かうくらいだからもっと血気盛(けっきさか)んなのかと思ったんだけど、違ったみたいだね」 「それって褒めてる? けなしてる?」 「褒めるもけなすもないよ。僕の感想。……良い意味のね」 「ふーん。それならいいか」  春樹はカウンター席に軽く座って話を聞いていたが、風に乗ってさらりと揺れる遠野の髪の綺麗さにやはり見とれてしまう。色素が薄いからだろうか、儚く見えてしまうのは。  そして、無意識に手がその髪にのびる。さわり心地も見た目同様で、さらりと手から砂のように零れ落ちた。 「どうしたの?」  見上げてくる瞳にまたもやドキリとした。さっきは追われていて遠野の顔をよく見ていなかったが、身近で見るとすごく綺麗だったから。  春樹は少し心がもやもやする。なにせ語彙力が足りない。この綺麗さを、儚さを、上手く体現する言葉が見つからないからだ。 「あ、いや……髪が、綺麗だなって。特に深い意味はないけど」 『深い意味』と言ってから春樹は後悔する。なんだか恋愛的な意味で意識しているように(かえ)って聞こえないだろうかと。  そこで遠野の反応を見る前に話題をそらそうと、片手を遠野にのばす。 「そうだ。改めて、俺は西山春樹。よろしくな」  その言葉と差し伸ばされた手を見た遠野は柔らかな動作で握手をした。 「……遠野(りつ)です。よろしく」  声も手もその微笑みも柔らかい。少なくとも、春樹が生きてきた中で初めて見る人種だった。そして同時に、もっと仲良くなりたいと思った。細かい理由など、どうでもいい。本能的にそう思ったのだ。 「いつもここにいるの? 図書委員とか?」  そう聞きながら暮れなずむ夕陽を恨めし気に見た。この心地いい時間が止まればいいのに。夕陽よ、暮れるな。 「あぁ……うん、そうだよ。図書委員は他にも一応いるんだけどね、みんなそこまでやる気がなくて。だから、全部僕が受け持つことにしたんだ。本が好きだし、ここが落ち着くから」 「へぇ……。またここに来てもいいかな」  なんとなく出た春樹の言葉に、遠野は目を見開いてから嬉しそうな顔をする。 「もちろん、大歓迎だよ。普段、ここに本を読みに来る人もいないんだ。だからいつも一人だった。西山くんが来てくれるなら、さみしくなくなるね。今日もよければゆっくりしていって」 「あー、えっと、本読むために来なくてもいい?」 「えっと……? というと?」 「ここ、なんか落ち着くから。気に入っちゃって」 「そっか。それでも嬉しいよ」 「うん」  何度も見せてくれる遠野の優しい笑顔に、春樹の心は満たされていく。  もしかしたら、遠野こそが自分が探していた『親友』なのかもしれない。いや、そうであってほしい。  そう思いながら春樹は荷物を床に置き、L字型になっているカウンター席で遠野が座っている席の斜めの位置に腰を下ろした。  そしてそのまま突っ伏し、疲れを抜いていく。遠野の、再び始めた読書の紙をめくる音が心地いい。春樹は次こそは遠野の横に座ろうと夢見て、眠りに落ちた。  *  しばらくして優しく揺り起こされる。 「西山くん、起きて」  背中の方をぽんぽんと柔らかく叩かれたことでぼーっとしていた視界がクリアになった。 「ん……?」  目の前に遠野の顔があり、少し驚くが春樹は緩慢な動作で起き上がる。  その様子にくすりと笑った遠野は壁時計を指さした。 「そろそろ下校時間だから、帰らないと」  春樹がその方を見ると時計は十九時を指そうとしている。 「あれ、ほんとだ」  それでも急ごうとせず、のんびりと荷物を持って歩きだす春樹に遠野は後ろからついていき、「のんびり屋さんだなぁ」と笑った。
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