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仕事も終わり、人の波にもまれながら駅に向かっていると、一見会社員風の男性にぶつかってよろけた女性が、響にぶつかってきた。
「ご、ごめんなさい…」
「ああ…」
2人は顔を見合わせたのだが、すぐに視線を硬直させて固まった。
「もしかして…」
「…清家?清家椿(すがやつばき)か?」
「今は瑞原椿(みずはらつばき)よ…京堂君だよね」
「ああ…覚えていたのか」
「あれだけ一緒に遊んだから…」
椿はそう言いかけて、息を呑んだ。
「ご、ごめんなさい、コート汚しちゃったわね」
「ああ…」
見ると、椿が手に持っていたタピオカミルクティーのカップが押された拍子に潰れて、響の灰色のコートを汚していた。
「京堂君、今急いでる?」
「いや、別に…」
「良かった。うちに来て。コートの替えを用意するから」
椿は響に否応いわせる隙も与えずに袖を引っ張り、すぐ近くのウィークリーマンション一室に響を連れ込んだ。
「…旦那、いいのかよ」
椿の私室でコートを脱ぎながら、響は当然の疑問を椿にぶつけた。
「旦那?何の話?」
「苗字が…」
「ああ…瑞原ってのは、私を引き取ってくれた伯父さんの苗字だから」
「なんだ…おれの中で清家は今でも清家のままだから、清家でいいか」
「好きに呼んで」
「清家は、小学校5年生の時、夏休み明けたらいきなりどっかに引っ越していたよな」
「…夜逃げしたのよ」
「え…」
「先生はみんなにどう説明したのか知らないけど、父が経営していた会社がにっちもさっちもいかなくなって、夏休みが終わる前に家族で夜逃げしたの。それで、夜逃げした先で両親が揃って事故死して、また引っ越したのよ」
「今はこっちに戻ってきたのか」
「事情があって…」
響からコートを受け取って、ポケットの中から紙片が飛び出ていることに気付いた椿がそれを取り出して広げ、声を上げた。
「先生の個展、京堂君も行くの?」
「先生?」
「この人、私の師匠よ」
「ああ…今は、球体関節人形作家なのか」
「まだ見習い。先生の身の回りのお世話をして、個展があれば準備を整えて、隙間を塗って作り方を覚えているところよ…京堂君も、球体関節人形に興味があったなんて…」
「おれじゃない…いや、そのチラシを持って帰ったのは確かにおれだが、興味があるのは、おれの女性の同僚だよ。展覧会初日のトークショーに当選したとかではしゃいでいたな」
「へえ…先生のトークショーって、すごい人気なのよ。今回も、定員50名に500人以上応募したわ」
「凄いな」
「海外にも招待されたりするのよ」
「へー…そういう時も、清家はついていくのか」
「そうね。私は見習いだから」
「それでここは、その先生…三浦氷雨?の個展が終わるまでの間の仮住まいって事か」
「そういうこと。ホテルでも良かったんだけど、滞在日数とか計算すると、こっちの方が安上がりだったから…ただ眠れる場所の確保目的」
椿はそう言いながら、クローゼットを開けた。
「はい、これ」
手には、男物のコートを持っていた。
「私が汚しちゃったコートはクリーニングに出しておくから、今日はこれを着て帰って」
「…こんな男物の…」
「先生のものを預かっているのよ。先生も今は個展準備で忙しくて来週までこっちにこないから、それまでこれ着てて」
「…三浦氷雨って男だったのか」
「よく言われるわ。本名はもっと男らしいけどね」
二人は連絡先を交換して別れ、響は、古い友人と再会を果たした懐かしさに包まれながら眠りについた。
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