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「ここから先は関係者以外立ち入り禁止です! 社長に御用があるのでしたらアポイントを取って……!」
ダークグリーンの制服に身を包んだ橋立悠太郎は渾身の力で目の前に立ち塞がる長身の男を両手で押し返した。体力には自信はある。しかし、それでも怯む様子のない男を大きな栗色の目を出来るだけ細めて睨みつける。自身ではこれ以上怖い顔はないだろうと自負しているが、周囲から見れば『にらめっこ』の変顔にすぎない。
悠太郎は警備所カウンターの奥に揺れる影に気付き声を上げた。
「き……北原さん! ちょっと手伝って!」
朝の通勤時間帯。このビルに出入りするスーツ姿の社員たちは、悠太郎の悲痛ともとれる声に何が起きたのかと興味津々に視線を向ける。
その不躾な視線をもろともせず、警備所のドアから現れたのは身長一九〇センチの筋肉の塊――いや、悠太郎の先輩である北原大悟だった。
「――はいはい。朝から何の騒ぎ?」
白手袋を嵌めながら目の前で男と揉み合っている悠太郎にちらりと鋭い視線を向けてから、大袈裟すぎるほどのため息をついた。
そして靴音も高らかに男に近づくと、着ているシャツの襟首をグイッと掴み、悠太郎では到底真似出来ない迫力満点のコワモテで見おろしながら地の底から響くような声で言った。
「おい、ここの警備員ナメてもらっちゃ困るな。部外者は入れないって言ってんだろーが!」
北原の迫力に一瞬怯んだかのように思えた男だったが、掴んでいた悠太郎の腕を引寄せて耳元で囁いた。
「――いつも見てるからっ! ハァハァ……」
バランスを崩した悠太郎の耳元にかかる生温かい息と耳を疑うような言葉に、それまで勇猛果敢に立ち向かっていた体を完全に停止させた。
それに気づいた北原は呆れたような顔で力任せに男を悠太郎から引き剥がすと、エントランスへと引き摺るようにして男を摘まみ出した。
再び戻ってくる可能性は大いにあったが、今の悠太郎にはそれを阻止することは不可能だった。
両手をパンパンと払いながら戻ってきた北原に覗き込まれるまで、悠太郎はその場に茫然と立ち尽くしていた。
「悠ちゃん? 大丈夫?」
先程とは打って変わった柔らかな声音にハッと息を吹き返したかのように視線を上げた悠太郎は、マジマジと北原の顔を見つめた。
警備員の制服よりも柔道着の方が絶対に似合うムッチリとした筋肉と短く刈り込んだ黒髪。
しかし、彼のつぶらな一重瞼には睫毛エクステションが施されていることを知るものは少ない。
「す、すみません! 北原さん……」
「いいのよ。それより怪我とか大丈夫? アイツ見た目より力強かったから……」
先輩である北原に深々と頭を下げた悠太郎に、彼は少し照れたように笑ってから、通り過ぎていく社員に向か敬礼をしながら「おはようございます! ご迷惑をおかけしました」と実に男らしい声で言った。
北原は自衛官であったが、自分の性癖――ゲイでオネエを上司に完全否定されたことに腹を立て、約束されていたエリート幹部への道を捨て、警備員の制服に憧れてこの道へ進んだ経緯がある。一号業務と呼ばれるショッピングモールやあらゆる企業・施設での警備経験を積み、今では主任としてこの警備所に勤務している。
悠太郎が配属された直後から直感的にウマが合ったようで、同じ時間帯の警備を任されることが多く、互いのプライベートも話し合える仲になっていた。
そうかといって、北原が悠太郎に下心を抱いているかと言えばそうではない。彼には目下同棲中の年下リーマン彼氏がいるし、悠太郎もずっと密かに想い続けている相手がいた。
乱れた制服を直しながら悠太郎をフォローするように挨拶を交わす北原は頼りになる先輩だ。
「――すみません」
出勤時刻が過ぎるまで悠太郎たちはエントランスを行き来する者たちに目を配る。先程のような部外者がいつ入って来るとも分からない。受付カウンターに立つ女性スタッフよりも先にそれに気づかなければ警備員として失格だ。
「落ち着いたら朝のミーティングしましょ? あ、そうそう! 今日は確か……朝から社長が出社するって言ってたから、ちょっと気を引き締めないとね。そろそろ来るかも……」
バチッと音がするようなウィンクをされ、悠太郎はその迫力にウッと息を詰まらせた。
「は、はい……。頑張ります」
北原からしてみれば身長一七〇センチで童顔の悠太郎は酷く小さく見えるだろう。しかし、長年の夢であった警備員になるために柔道と合気道、そして剣道を持ち前の頑張りで極め、高校生の時にはすべての大会で優勝している。着痩せするタイプだが、それなりに筋肉を纏い、引き締った身体を持つ悠太郎。
そもそも、警備員になろうと決意したのは長年思い続けている幼馴染への恩返しの為だった。
小さい頃は体が細く気弱だった悠太郎は、近所のいじめっ子の格好のターゲットだった。そんな彼を守ってくれたのは悠太郎の家の近所に引っ越してきた久保園大雅だった。両親が会社経営者という裕福な家庭で育った彼だったが、富裕層にありがちな貧弱で臆病な雰囲気はなく、むしろ『売られた喧嘩は買う!』『やられたら三倍返しじゃ済まない!』というどこまでも強気で、今でいうドS気質な少年だった。
控えめな性格で人見知りする悠太郎を積極的に遊びに誘い、どこにいてもいじめっ子からの脅威から守ってくれた、いわばヒーローのような存在だった。そんな大雅にいつしか惹かれ、彼に抱いている感情が憧れから恋に変わったのは高校生になってからだった。
しかし、彼は進学校への受験を控えており、悠太郎もそんな彼の邪魔だけはしたくないとその想いを自身の中に封印し今に至っている。
「――おはよう」
「おはようございます、社長!」
一八五センチの長身に、フルオーダーのブランド物のスリーピースを身に纏った完璧ともいえるモデル体型。
気品と優雅さ、そして畏怖を纏った端正な顔立ちとすべてを見透かすような鋭い眼差し。
爽やかなムスクの香水の香りを振りまきながらエントランスに姿を現したのは、今や飛ぶ鳥を落とす勢いで成長を続けるIT関連企業Uプロテクト株式会社代表取締役社長、久保園大雅だった。
二十七歳にして自社ビルを構えるまでに成長したUプロテクト株式会社は、優秀な人材と営業力で一流企業のシステム構築からITセキュリティー、緊急時に対応できるSEの人材派遣まで手広く手掛け、後ろ盾である彼の両親が経営する不動産会社とも連携し、今や久保園グループはビジネス誌のトップを飾る大企業へと発展していた。
その大企業の警備は、悠太郎が勤務するH総合警備サービスが請け負っている。これも偶然か、はたまた運命かと思わせる展開に悠太郎の心がときめいた。
二年前――たまたま警備業務に当たっていた前警備会社が一身上の都合で一方的に契約解除し、新規契約案件に入札していたH総合警備サービスが企業側が示した契約金と合致し、入社したばかりの悠太郎が配属になった経緯がある。
大雅にそれとなく契約したことについて聞いてみたが「縁故で警備契約することはない」とキッパリと言いきられた。やはり、企業を動かす者となれば、馴れ合いより金額や信頼性を重視するのだろう。
偶然が重なって起きたことにせよ、もう運命としか言いようがない。悠太郎は、大雅に対する想いの強さが互いを引寄せたに違いないと信じてやまない。
こげ茶色の髪を無造作に掻き上げながら歩く彼の前は、モーゼの十戒の一場面のようにロビーに溢れていた人々が道を開け、次々と挨拶を交わしていく。
その光景はいつ見ても圧巻で、そして何よりそこに立つ大雅の姿は逞しく美しかった。
「あ~ら。社長、思ったより早かったわね」
北原のぼやきに耳を貸すほど、今の悠太郎には余裕などなかった。
毎日、顔を合わせない日はない幼馴染。それなのに『社長』という肩書を背負っただけで雲の上の存在のように遠くて手の届かない人になる。
それでも、彼の顔を見れることが悠太郎にとって一番の楽しみであり幸せだった。
悠太郎の中に息づく絶対的なヒーロー。それが大雅だからだ。
「おはようございます! 久保園社長」
北原の業務用である野太い声に弾かれるように、悠太郎も敬礼しながら声を上げた。
「おはようございます!」
切れ長の目をすっと細めて悠太郎を見た大雅は、綺麗に磨かれた革靴の歩みを止め、緊張した面持ちで立つ悠太郎の前に足を進めた。
「おはよう……。朝から部外者と揉めたらしいな? 何のために高い契約料払って警備を頼んでると思ってるんだ? 職務怠慢? 橋立くん、もうちょっと緊張感を持って業務にあたってもらわなければ困る。北原くんも……この砦を守るのは君たちなんだからなっ」
年上の幹部をも震えさせる余裕を含んだ物言いは昔から変わらない。柔らかい言葉を選びながらも、言ってることは辛辣で相手に隙を与えない。
大雅の言う事は間違ってはいない。警備所の職員として、部外者をロビーに入れてしまったことは失態に他ならない。
悠太郎は大雅のお叱りを真摯に受け止め、薄い唇をキュッと噛みしめたまま小さく頷いた。
恋心を抱く相手に辛辣な言葉を浴びせられても不思議と涙は出ない。昔も今も、大雅の言う事に間違いはないからだ。
「申し訳ありませんでした。以後、気を付けます!」
今、目の前にいるのは朝から晩まで遊んだ幼馴染ではない。キツイ口調で叱咤する雇い主である社長。そして、与えられた業務を全うし給料を貰っている一介の警備員。
「社内では他人。馴れ合うことはしない」
大雅の口癖だが、悠太郎にとって時にその言葉が切なく、そしてまるで関係のない者のように感じられて心を痛ませた。
でも、自分は大雅を守るためにここにいる――そう何度も言い聞かせ、己を奮い立たせる。
悠太郎にとって、大雅を守ることが彼に出来る唯一の恩返しなのだ。いつまでも守られているばかりではいられない。二十五歳になり、大人として生活している以上は責任感を持って仕事に集中したい。
溢れんばかりの大雅への想いも、この時だけは心の奥底へと沈める。ふとした時に浮上してしまう自分の弱さに時折呆れもするが、仕事を離れればごくごく普通の幼馴染に戻れるのだから。
「――監視カメラの画像、俺のところに送っておいてくれ。 不審者リストに登録しておく。まったく、最近は変な輩が増えて困る……」
露骨に不機嫌な様相を見せ、大雅は胸元から取り出したスマートフォンを何事もなかったかのように耳に当てて、その場をあとにした。
ベントが深く入ったサイドベンツのジャケットが逞しい背中にフィットしている。スーツのデザインもカラーも、小物使いも隙がなくセンスがいい。
オシャレで誰よりもカッコいい大雅の後ろ姿に見惚れていた悠太郎の腕を太い筋肉の塊が小突いた。
「またぁ~。悠ちゃんてば、やめときなさいよ。久保園社長なんかに惚れちゃダメ! 毎晩女をとっかえひっかえするような男に惚れたら、泣くのはあなたよ?」
「え……? そうなんですか?」
「知らないの? ホント、会社の噂に疎いんだから~! 社長は遊び人の女ったらし。飽き性で面倒になると金で何でも解決するって悪評高い男よ。可愛い可愛いって育てられたセレブの坊ちゃんじゃ仕方ないけどね」
プライベートの事も話す間柄である北原だが、大雅との関係について一切話してはいない。
縁故で雇用されたとなれば、悠太郎に対する周りの目は変わってくる。それが幼馴染であるとなれば尚更だ。
一流大学を出て新規社員雇用でもなかなか採用されない難関中の難関企業。
しかし、憧れのUプロテクトに入社したいと希望する就活生は年々増加し、狭き門を更に狭いものへと変えていた。
それが『幼馴染』というコネで警備員として起用されたとなれば、悠太郎の肩身は自然と狭くなる。
だから、それだけは絶対に口にしてはならないと大雅と約束した。
彼の傍で働きたい。彼を守りたい……。
その願いが叶った今、悠太郎は穏やかに最愛の男を見守りながら過ごすことが出来るのだ。
「悠ちゃんにはもっと素敵な彼氏が出来るわよ。さぁ、ミーティング始めましょうか?」
北原の大きな手でポンと肩を叩かれ我に返る。
(女ったらしで、遊び人……? あの大雅が?)
社内で拡がっている噂がどんなものであるか興味を持つこともなかった悠太郎だったが、北原の話を信じるならば大雅は物凄いレッテルを貼られていることになる。
悠太郎の前ではそんな素振りを見せない大雅。高級クラブで両脇に女性を侍らせてふんぞり返っている光景は、悠太郎からしてみればまったく想像出来ない。
ドSでオレ様で、ちょっと口が悪くて血気盛んには見えるが、ああ見えても甘えん坊で寂しがり屋なのだ。
それを知っているのは幼馴染である悠太郎だけなのだが……。
「――悠ちゃん!」
警備所のドアから顔を覗かせた北原が「早くぅ~」と手招きする。慌てて弾かれるように足を向けた悠太郎だったが、自分の知らない大雅の一面を知ってしまったような気がして、心なしか心が曇り始めていた。
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